第20回 「風雲? 北白川城! ―付:ふたたび休載にあたって」 を公開!
人文研探検―新京都学派の履歴書(プロフィール)―| 菊地 暁(KIKUCHI Akira)
   
 
   
 
   
 

「人文研探検―新京都学派の履歴書(プロフィール)―」
第2回

1968年=新京都学派の「終焉」?
―あるいは、新京都学派を「再領有」するために―



 

 1968年3月21日、京大文学部の大講義室は超満員の大盛況となった。桑原武夫(1904-88)の退官記念講演「人文科学における共同研究」を聴くために、である。「共同研究」を京大人文研の代名詞とした最大の功労者といえば間違いなく桑原だが、その彼が、この日、『ルソー研究』(1951)から『文学理論の研究』(1967)へと至る6つの主催共同研究の成果を披露、「サロン的」「お遊び」「耳学問」といった数々の批判を受け止めつつ、それでもなお「共同研究」が学問を進める有効な手段たり得ること、そしてその基盤として「人間関係」の内実がきわめて重要であることを、得意の機知あふれる弁舌で訴え、耳を傾ける人々を魅了した。

 

桑原武夫(1904-88)の退官記念講演

桑原武夫の退官記念講演(1968年3月21日)
斎藤清明1986『京大人文研』創隆社、p. 246より

 

 この“勝利宣言”ともいうべき講演は、にもかかわらず、新京都学派の「終焉」だった。それでいい過ぎだとすれば「終わりの始まり」あるいは「ターニング・ポイント」。現時点からすれば、そう評価するのが妥当だろう。この年が、フランスの五月革命に始まる学生運動の同時多発に激震した一年だったというばかりではない。むしろ、新京都学派を支えたヒューマン・ネットワークの核心部分、桑原と同世代の学究たちが人文研を去ったことのほうが、はるかに実質的だった。

 

 今西錦司(1902-92)は早くも1965年に退所、その後継者・梅棹忠夫(1920-2010)が国立民族学博物館創設に向けて退所(1973年)するまでなおしばらくあったが、雲岡石窟の発掘で世界的業績を残した考古学者・水野清一(1905-71)は桑原と同年、その相方の長廣敏雄(1905-90)は翌年に退所、同年には中国科学史研究の泰斗・藪内清(1906-2000)や気鋭の社会学者・加藤秀俊(1930-現在)も研究所を後にし、そして何より、東方文化学院京都研究所に入所して以来、36年間にわたって研究所を支え続けた東洋史家・貝塚茂樹(1904-87)が、1968年3月、桑原とともに人文研を去ったのだ。

 

 ひるがえって、人文研の人的編成を眺めると、きわめて特異な年齢構成が浮かび上がってくる。旧連載第1回で触れたとおり、人文研は、東方文化学院京都研究所(1929年設立、1938年「東方文化研究所」に改称)、独逸文化研究所(1933年設立、1945年「西洋文化研究所」に改称)、京都帝国大学人文科学研究所(1939年設立、便宜上これを「旧人文」とよぶ。1947年「京都大学」の付置研究所となる)が紆余曲折を経て合併した研究機関である(便宜上これを「新人文」あるいは「新制人文研」などとよぶ)。試みに、統合一年後、1950年4月時点の「所員(講師以上の専任教員)」を出生年順に並べると以下のようになる。

 

1898 塚本善隆(教授)

1901 天野元之助(講師) 倉田淳之助(講師)

1902 今西錦司(講師)

1903 安部健夫(教授)

1904 貝塚茂樹(教授) 桑原武夫(教授) 清水盛光(教授)

1905 岩村忍(教授) 重松俊明(教授) 長廣敏雄(教授) 水野清一(教授)

1906 坂田吉雄(教授) 森鹿三(教授) 藪内清(教授)

1909 小野川秀美(助教授) 平岡武夫(助教授)

1910 入矢義高(助教授)

1911 藤枝晃(助教授) 前川貞次郎(助教授)

1914 日比野丈夫(講師)

1916 河野健二(助教授)

1917 太田武男(助教授) 紀篤太郎(助教授) 島田虔次(助教授)

1918 安達生恒(助教授) 渡部徹(助教授)

1922 鶴見俊輔(助教授)

 

 このなかで50歳を超えているのはわずかに塚本のみ、他のすべての教授は40代なのだ*1。大学の一部局が事実上40代以下のスタッフで占められるという事態は、今日ではほぼあり得ないことだろう。歴史上あったとすれば、草創期の帝国大学ぐらいである。つまり、新制人文研は、恐ろしく「若い組織」だったのだ。そう考えると、人文・社会科学に「共同研究」という新たな手法を持ち込んだ当時の若々しい意気込みも容易に納得できるし、桑原が、全学組織で威張り散らす旧態依然としたボス教授たちを侮蔑して、「ああいうヤツは全部死んだらええ。五十歳以上のヤツが風邪を引いたらコロッと死ぬようなウイルスを作る方法はないやろか」と冗談まじりに語ったということも*2、なるほどと首肯される。

 

 そもそも旧制教育は、ただでさえ強固で親密な人間関係を育む温床となりがちだったが、とりわけ、桑原と同世代の多くが京都第一中学、第三高等学校、京都帝国大学の同窓関係にあり、恐ろしく密度の濃い人間関係を形作ることとなった。この三つの学校が、近衛通、東一条通をはさんで並び立ち、南から順に一中→三高→京大と“北上”していくことが京洛子弟のエリートコースだったことは、すでによく知られたことだろう*3。なかでも因縁めいた間柄なのが、桑原武夫と貝塚茂樹である。

 

 桑原の父・隲蔵(1870-1931、東洋史家)、貝塚の父・小川琢治(1870-1941、地理学者)は、同い年にして東京帝国大学を同年卒業、ともに京大史学科の初代教授としてその確立に与った同僚だった*4。しかも、武夫と茂樹は、互いに「父の同僚」の教えを受けたことがあり*5、三高在学中の武夫が登山で大ケガをした際には、小川に「座敷に正座させられたまま、二時間ばかり頭ごなしに叱られた」ことまであったという*6。つまり、桑原武夫と貝塚茂樹は、同い年にして京都一中以来の同級生であるばかりか、家族ぐるみの濃密な知的交友関係において結ばれていたわけだ。

 

 こうした関係は、新制人文研の運営にも決定的に作用した。先述した通り、新制人文研は設置者も設置目的も異なる3研究所が、「戦後」という特異な時代の要請にしたがって半ば強引に統合されたものなのだが、その危うい結合を支えた要因の一つが、「東方部」を代表する貝塚と「西洋部」を代表する桑原との、二代にわたる代替不能な関係性だった。当時の所員会では*7、桑原が理路整然と論点を並べることで議論の口火を切り、喧々諤々の応酬の末、貝塚が落としどころを確認して終わる、という流れに自然となったという。そもそも、桑原・貝塚の二人は、京大東洋学を出自とする多くの所員にとって「恩師の息子」にほかならず、一目も二目も置かざるを得ない存在だったのだ。

 

 ここまで、特定組織の内部事情に入り込みすぎた嫌いがないではないが、あえて詳述を厭わなかった。というのも、確認したかったことがあるからだ。それは、新京都学派を支えた歴史的、地理的、社会的固有条件、端的にいってその「反復不能性」である。新京都学派と称すべき一群の知性たちが繰り広げた、勘所のよい着眼と軽快な知的フットワーク、簡潔で平易な文体としなやかで大胆なコミュニケーション、そういった諸々の特性を、筆者はいまなお新鮮さを失わないアクチュアルな試みとして高く尊重するものであるが、そしてその試みを何とか私たちの「いま・ここ」に移植しようと暗中模索しようとしているわけだが、そもそもそれは、歴史的に再現不能な「固有種」かもしれないのだ。

 

 このことは、キチンと頭の隅に置いておきたい。

 

 

 




   
*1   付言すると、天野、倉田、今西など、いずれも重量級の学究が「助教授」ではなく「講師」となっているが、人文研では、教授クラスの実力がありながらもポスト数の関係で教授にできない場合、「教授」の下となる「助教授」を避けて「講師」とする慣例があったという。
   
*2   桑原武夫1988『日本文化の活性化 エセー一九八三年―八八年』(岩波書店)p. 164。
   
*3   なお、京都一中に最も生徒を送り込んでいたのは、さらに南に位置する錦林小学校だった。桑原武夫1971『思い出すこと忘れえぬ人』(文芸春秋)p.49参照。
   
*4   京大史学科の草創が、年齢的にも出身校の面からも近しい間柄の教授陣によって担われたことは、拙稿2009「敵の敵は味方か?―京大史学科と柳田民俗学―」(小池淳一編『民俗学的想像力』せりか書房)において指摘した。
   
*5   仏文専攻の武夫は制度的に小川琢治の学生だったことはないが、「一頃は小川邸へ行っても、茂樹君より老先生と話しをすることの方が多かった」という。桑原武夫1980(初出1956)「博雅の士貝塚茂樹」『桑原武夫集』4(岩波書店)p. 472。
   
*6   同上p. 471。
   
*7   いわゆる教授会のこと。国立大学独法化後は、人文研も世間並みに「教授会」と称するようになった。
   
 
   

 

 
     
 
本書の詳細
   
   
 

 桑原武夫、貝塚茂樹、今西錦司、梅棹忠夫ら、独自の作法で戦後の論壇・アカデミズムに異彩を放った研究者たち。新京都学派と呼ばれた彼らの拠点こそ、京都大学人文科学研究所(人文研)でした。気鋭の民俗学者が人文研の歴史に深く分け入り、京都盆地の、そしてそこから世界に広がる知のエコロジーを読み解きます。
 伝説的な雑誌『10+1』INAX出版)誌上で始められ、その休刊とともに中断していた連載を、ここに再開します。屈曲蛇行する探検の道のりに、どうぞお付き合いください。

   
 
   
著者・訳者略歴
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菊地 暁
(KIKUCHI Akira)

京都大学人文科学研究所助教、文学博士。民俗学専攻。
〔著書〕 2001『柳田国男と民俗学の近代―奥能登のアエノコトの二十世紀―』吉川弘文館、2005(編)『身体論のすすめ』丸善。
〔論文〕2012「〈ことばの聖〉二人―新村出と柳田国男―」(横山俊夫編『ことばの力―あらたな文明を求めて―』京都大学学術出版会)、 2010「智城の事情―近代日本仏教と植民地朝鮮人類学―」 (坂野徹・愼蒼健編『帝国の視角/死角 〈昭和期〉日本の知とメディア』青弓社)、2008「京大国史の「民俗学」時代―西田直二郎、その〈文化史学〉の魅力と無力―」(丸山宏・伊従勉・高木博志編『近代京都研究』思文閣出版)、2004「距離感―民俗写真家・芳賀日出男の軌跡と方法―」(『人文学報』91)など(詳しくは、ここを参照)。

参考情報:「INAX出版」ウェブサイトはこちら

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