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立ち読み  
編集後記  第66巻9号 2018年9月
 

▼桐一葉日当たりながら落ちにけり  高浜虚子
 「ひ・あ・た・り・な・が・ら」と中七のゆったりとした調べやリズムを感じながら呟くと、秋のやわらかい陽ざしを受けながら桐の葉が裏表に翻る映像が心に浮かびます。落ちているのですが、畢竟、心象の桐の葉は地に着くことなく宙に舞い続けるのが不思議です。では、次の句から皆さんはどのような情景をイメージしますか。
赤い椿白い椿と落ちにけり  河東碧梧桐
 これも「落ちにけり」です。諸家の意見は、分かれるそうです。「地に落ちた椿の花を詠んだ」(正岡子規、高浜虚子、大岡信ほか)。「宙に落ちつつある椿の花を詠んだ」(山口青邨、寺田寅彦ほか)。

▼精神科病院に臨床心理士として勤めていたとき、同僚の作業療法士がアルコール使用障害者のセラピーとして俳句会を行うことを提案し、スタッフも作句し、投句するように求められたのが俳句との出会いです。残念ながら俳句を詠む才能には恵まれなかった私ですが、掲句のような名句を鑑賞するという趣味を得ることができました。そして、副次的な心理療法的奏功もありました。気に入った句を諳んじることは、些細なことに拘泥し傷つきやすい心の慰めとなりました。その日の失態や迷惑をかけた相手の顔が心に浮かび拭うことができないとき、理不尽な怒りに触れた憤りと相手を罵る汚い言葉が私の心を占めているとき、その時期の好きな句を呟きます。季節の美しい情景を切り取った名句を、イメージが鮮明になるように唱えます。そのまま帰宅してしまえば深酒と不眠、家族への八つ当たりになりそうなささくれた感情が少し穏やかなものになります。俳句は私の念仏なのかもしれません。あるいは瞑想へと誘うティンシャ(密教法具、ヨガや瞑想でも使用)なのかもしれません。

▼私は臨床心理学を専門としていますので、今月号の第2特集「マインドフルネス(瞑想)と教育・医療」は、医療領域のみならず、教育領域や矯正領域での展開が紹介されており、とても興味深く読みました。認知療法の文脈で考えると、「不適切な認知内容(受け取り方、解釈の仕方)を変容させる」という試みから、「不適切な認知内容そのものではなく、その認知内容との関わり方や距離の置き方を変容させる」試みに転換されているように思います。そこには、論理的な意識や観念的理解に焦点を当てるのではなく、身体感覚や情動などの生き生きとした実感を伴う気づきを大切にしているように私は考えました。

▼桐の葉や椿が落ちゆく一瞬、あるいは地に落ちたさまと、人生の哀愁や悔恨とを重ね合わせてしまうのかもしれません。しかし、そのような思いは思いとして、心に生じたその映像や感覚に「あるがまま」に身を任せることが、身体と心の痛みを和らげるように思います。特集でも紹介されたようにマインドフルネスには様々なワークがあるようです。俳句とマインドフルネス……、研究してみようと思います。

 

(古賀 聡)
 
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