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沙翁と福翁に学ぶ生きる知恵

沙翁と福翁に学ぶ生きる知恵

本書より抜粋
「道化のように」・「朱に交わりながら赤くならない」

 

本書より抜粋『道化のように』
『朱に交わりながら赤くならない』


 

道化のように

 道化の元をただせば狂人を装って人を笑わせ楽しませる事から始まったと言われております。中世ヨーロッパでは宮廷道化という制度がありましたが、無礼お構いなしの身分を与えられて機知を利(き)かして王侯貴族を楽しませることを仕事としました。宮廷道化と言えば、シェイクスピア劇『リア王』の道化がよく知られております。様々な場面に応じて、とっさに鋭い知恵を働かせて冗談まじりに王様を慰め笑わせながら皮肉を浴びせて、ちくりと真実をつくのです。例えば次のせりふなどが良い例です。

でっかい車がやまからころげ落ちるときは手を放すもんだ、つかまってりゃ,首の骨をやられるのがおちだ。だけどそのでっかいのが上に登っていくときは、しっかりつかまって引っぱりあげてもらうがいい・・・・・・

「でっかい車がやまからころげ落ちるとき」とは落ち目の人間リアで「そのでっかいのが上に登っていくとき」とは権勢ふるうリア王をさしております。落ち目のリアについて行く者はいないが、権勢誇るリアに媚びる人は多かったと言っている訳です。そしてドラマの主題とも言える様な大事な事柄でさえ鼻歌交じりにさらりと言ってのけるのです。

ぼろ着たおやじに、子は見ぬふりし、 銭(ぜに)もつおやじに、
子はやさし。 運の女神は、名うての遊女、貧乏人に戸はあけぬ。

 この道化の場合にも言えることですが、宮廷道化はしばしば王侯貴族よりも一段高いレヴェルから話しております。つまり道化はそれとなく真実を突きながら、心のなかで相手を哀れんだり、慰めたり、さげすんだり、笑ったり出来る立場に居る訳です。

さて様々な人付き合いのなかで、なかなか自分の意見が言い難(にく)かったり、だからと言って馬鹿になり切って何も言わないで居ては腹の虫が治まらないということがあります。その様な時に、道化の立場に立ってみてはどうでしょう。冗談まじりに少しずつ自分の胸の内をちらつかせながら、怒らせない程度に相手の話を面白おかしく茶化し、それとなく自分の思いを通すのです。    


朱に交わりながら赤くならない

道化流の茶化しに似た話が福澤の若い頃のエピソードにあります。福澤が道化の立場を必要としたと言うのではありません。福澤は臨機応変に知恵を働かせて朱に交わりながら赤くならない人付き合いをして面白がっていたというのであります。福は若くして一角(ひとかど)の漢学者などでも太刀打ち出来ない程の漢書を読み終えて文才際立っておりました。学問や思想の分野では既に自他共に許す高いレヴェルに居りましたから、誰に対しても臆することなく自分の意見を堂々と言える立場にあり、道化の隠れ蓑などを必要とはしませんでした。緒方の塾で同窓の乱暴書生達が盛んに茶屋遊びの話などに興じている時など、同輩達をあっさり見下して嗜(たしな)める事も出来たでしょうし、また独り孤高を持し超然としていることも出来たでしょう。ところが福はその様な世界に大いに興味があるかの様に、また万事その方面に通じているかの様に大言壮語を吐きながら騒ぎ立て、同輩達の野暮を冷やかして面白がっておりました。しかも自らは鉄石の如く清浄(しょうじょう)潔白(けっぱく)を貫いたと言うのであります。ですから福澤のこの豪快な人付き合いは少しばかり道化気味に、座が白けない様に配慮したのだと思います。そして飽くまでも自ら信ずる絶対の主義を通して、朱に交わりながら赤くならない為の方策でもあったのだと思います。  

(本書34ページから37ページより抜粋)

 

著者プロフィール:石川 実 (いしかわ みのる)
慶應義塾大学名誉教授  1927年茨城県に生まれる。

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