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ニューヨークの風
 

―慶應義塾ニューヨーク学院の思い出

小田 卓爾 著

 
 

 ニューヨーク学院には「英語派」と「日本語派」という専門用語があった。アメリカからきたとはいえ、一年そこそこの滞在で、それほど英語が話せるようになるわけではないし、それに英語圏以外の国々からきた生徒たちもいた。そこで、英語で話す方が楽な生徒たちは「英語派」、日本語の方が楽な生徒たちは「日本語派」という呼称が生まれた。ただ、ここ数年、日本から直接入学する生徒の数が増えたことによって両派の比率が急速に変わってきた。面白いことに、日本からきた生徒の中には帰国組もいて、数年しか滞在していないアメリカからきた生徒より英語がうまい「英語派」がいる。彼らは「出もどり」などと呼ばれている。比率が高くなった日本語派の生徒たちの英語力のグレードも多様になっているのである。それやこれやで、このニューヨーク学院の専門用語が、このところ、より現実的に使われるようになった。

 などと、「英語派」と「日本語派」という言葉の定義が長くなったが、最近の傾向について、いろいろな意見はあるのだが、言っておきたいことは、ニューヨーク学院生の底抜けに明るい人柄と高い資質は、いつの世も変わりがないことである。日本語ができても、英語ができても、意地悪な人間になってしまったら元も子もない。この両派は感情的に対立しているわけではなく、日常生活でお互いに助け合っているのである。

「おまえ英語派だよな、これやっといてよ」「じゃ、きみは日本語派なんだから、これたのむぜ」などと、宿題を分かち合う「ちゃっかり派」の生徒たちを両派の中に見かけることがある。調子のよすぎる分業だが、あえて弁護すれば、とにかくアサインメントやグループワークやイベントの多い学校で、こうして手分けしながら多くの仕事をこなしているのである。お互いの出来栄えをチェックしながら、結構、学び合っているのだ。

「徒然草って、どんな花が咲くんですかぁ」

こんな質問をする生徒に古文など教えるのは無謀だ、などとネガティブな発言は慎みたい。たしかに、海外育ちの「英語派」も日常会話の日本語はほとんど問題ないのだが、文章体になるとちょっと躓くことがある。ただ、現代文と古文を同時に学習する体験は、その国の言葉の理解にはむしろ有益と言える。相互作用的に理解度を深めるからだ。イギリスの私立学校に留学すれば、外国の生徒たちも中世英語や場合によっては古代英語まで読むことがある。それが、会話を含めて現代英語の学習に有益であるといった話は何度も聞いたことがある。が、その逆はまったくない。

‘Thou art in a parlous state, shepherd.’(「これは逃道は無いぞ、羊飼殿」福田恒存訳)
「〈お前〉ってyouだけかと思ってたしさ、artは〈芸術〉じゃねぇんだよな」(Thou artはYou areの古い表現、親しい間で使う)

 大した海外生活の体験もない「日本語派」にとってシェイクスピアの作品は手ごわい。日本なら、ふつうシェイクスピアは大学の英文科で読む。いかに難解であるかを、教授が該博な知識を披瀝しつつ重厚な面持ちで講義をする。失礼ながら、ニューヨーク学院から見ると、そんな光景はこっけいに思われるほどである。ニューヨーク学院はアメリカの学校でもあり、シェイクスピアぐらいは気楽に教室で読む。表現の妙を、人生の面白さを、音調の素晴らしさを、先生が肩に力を入れたりすることなく、楽しく教えてゆく。あえて難しくする必要もないのだ。そうこうするうち、日本語派もシェイクスピアの世界に誘われてゆく。ごく自然な成り行きなのだ。
 


(本文『英語派&日本語派』より抜粋) 

 

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