『情の技法』というタイトルから、この論文集の中身をすぐに想像できる読者は、あまり多くはないだろう。「技法」と言う以上、それは何かをなすための方法で、社会的に共有できる、つまり教えたり学んだりすることができるはずのものである。では、「情」とは何だろうか。この言葉が指すものは、我々にごく馴染み深いと同時に曖昧である。「情」の一文字にさらに文字を加え、情念、情愛、情動といった言葉に言い換えてみる。あるいは「情の技法」という言葉を、自分が良く知る領域、専門分野に引き込み、身近な経験に当てはめて意味を理解しようと試みる。そうした工夫なしに「情の技法」を想像することは、少々難しいかもしれない。それは「情」という言葉の指すものが、半ば自動的、無自覚的に扱われがちであり、明確な姿を取ることなしに広い領域に渡るものだからである。我々は日々を暮らしてゆく中で、他者の、あるいは自己の心のさまざまな働きを感じ取る。「情」とは、言わばそうして知覚された心の作用を総称する言葉だと考えることができるだろう。「情」の「技法」を論ずることは、たとえるなら、意識することなく操ることのできる母語の「技法」を、改めて一から論ずることに近い。それがかなり難しい試みであること、取りかかるにも手がかりに乏しい作業であることは、想像に難くないはずである。
前世紀の終わりに『知の技法』というタイトルの書物が出版され、大いに耳目を集めたことは、まだ記憶に新しい。これは良く知られているように、知を継承し、保護し、また新たに生み出しつづける巨大で多面的なシステムの存在を前提として、大学新入生を対象に、読者を文系の学問世界へと手引きするものであった。知はすでに体系化された形で人々の間に存在し、それに参加し、支え、新たな展開を担うことへと、意欲ある人々を誘っている。しかし「情の技法」を論ずる際に、同様な状況は期待できない。無論、さまざまな領域、特に芸術の世界においては、技巧を開発し伝承する過程において、「情の技法」とも呼ぶべきものの確立と継承が行われてきた。しかし一般化された「情」そのものの姿が、体系化されたものとして我々の眼前に存在しているわけではない。「情」を理解するためには、さまざまな領域での具体的な「技法」を個別に論じ、積み重ねて行くこと、またそれを手がかりとして、正面から「情」の姿と働きを捉えるべく試行錯誤を繰り返すことが必要であろう。この論文集はそうした試みの一つである。
慶應義塾大学文学部では、2003年度総合講座「情の技法」および2004年度総合講座「情の技法II」として、共通テーマにもとづく一連のオムニバス講座を開講した。この本は、それら一連の講義を出発点として執筆された(一部講義そのものの記録を含む)論文集である。ここには計20編が収められている。興味に合わせ、どこから読んでいただいても結構だが、主として通読の便宜のために全体を三部に分けて構成した。
第一部は「〈情〉の構図」と題し、「情」そしてその「技法」を理解するための入口となることを意図したものである。冒頭の二編は現実の歴史、あるいは劇場の舞台の上で展開された「情の技法」の好例を記述し考察したものである。「反知識人とは何か――ひとつのアメリカ的伝統」(巽孝之)は、文学史を手がかりとしてアメリカ史全体に通底する反知性主義の血脈を論じている。つづく「反感情移入の陥落――クリストフ・マルターラーの『ヨ―ロッパ人をやっつけろ!』における観客の自己欺瞞」(平田栄一朗)では、演出家マルターラーが、その音楽劇でいかに観客の知的・批判的精神を誘導し、その反応を通して逆説的な批判を行ったかが指摘されている。「『本当の自分』の政治学―公と私における情の技法」(岡原正幸)では、近代以来の「感情自然主義」が有効性を失った今、いかなる方法で自己アイデンティティを確保することが可能であるかが、現状の撞着的なあり方への憂慮と共に検討されている。「『甘え』概念について」(土居健郎)は、現在にいたるまで「情」の理解において大きな影響力を持つ「甘え」の概念とその確立のプロセスを、『甘えの構造』(1971)の著者自身によって明らかにしたものである。「音楽における時間、構造、および情緒について」(ジョゼフ・ゴーギャン、良子・ゴーギャン)は、クオリアの概念を用いて音楽体験が持つ科学では計測不能な領域を分析し、意識的経験が持つ階層的な構造を解明しようと試みている。そして「情行為試論――悲しいから泣くのではない。環境事象があるから泣き、悲しむのである。」(坂上貴之)は、スキナーの情行為論を援用しながら、行動分析学の見地から行動としての「情」の働きを分類・理解し、「情」なるものの姿を明確に記述しようという試みである。
第二部「〈情〉を読み解く」には、「情の技法」を理解し記述しようという、様々な領域での具体的な試みを収めている。「世論操作と〈情〉」(川上和久)は、アメリカ独立戦争から両大戦、ベトナム戦争をへて現在にいたるまで、アメリカの戦争遂行と一体化してきた世論操作の歴史的経緯を論じ、ベトナムでの敗戦以降その様相が大きく変化したことを指摘する。「情の建築――戦争・記念碑・癒し・忘却」(生井英考)では、ベトナム戦没者記念碑の設計と建設の経緯が検討され、参戦した兵士の体験が社会全体の記憶としてトラウマ化し、またそのプロセスを通して現在にいたる「癒し」の概念が生み出されたことが論じられている。「情のもつれ――アメリカの創作科と文学批評」(吉田恭子)は、アメリカ固有の文化現象である大学院創作科の存在をめぐり、文学理論の変遷がもたらした文学観、作家観の対立、そして「文芸は教えることができるのか」という論争を取り上げている。「国文学作品における情」(石川透)は、古典文学における感情の表出方法に目を向け、現代語とは異なる表記法や和歌の挿入などに注目する。そしてそれらによって表現された「情」と現代人が知るものとが異なることを示唆し、我々がアカデミズムの手助けや仲介無しそれに触れることの困難さを指摘している。「女性たちは愛をどのように生きたか――近代フランスに則して」(小倉孝誠)では、19世紀フランスの小説と回想録が取り上げられ、そこに描かれた上流家庭の娘たちが、恋愛のような強い情動から隔離された環境で厳格な教育を受け、そのまま愛の介在しない結婚生活へと送り出されていった様が論じられている。そしてこのような19世紀的状況が、人妻による不義の恋を特権的なテーマとするこの時代特有の不倫文学を生み出したのだとする。「ストウ夫人のメロドラマ―『キリスト教徒の奴隷』(1855)にみる〈情の技法〉」(常山菜穂子)は、観客の感情に強く作用するメロドラマ的手法を「情の技法」と見なし、作者自身による舞台化で『アンクルトムの小屋』がメロドラマ的効果を強め、キリスト教が力を失った時代に、大きな宗教的役割を担うこととなったと評価している。また「恋のベストセラー――E. M. ハルの『シーク』を中心に」(河内恵子)では、20世紀初頭に大流行した、砂漠などの異境を舞台とし、女性を主人公とするロマンス小説を取り上げている。これは19世紀後半以来の社会状況の変化、それによる女性の意識変化の反映と考え、ここに旧来の類型的文学史とは一線を画した新たな文学史の可能性を示唆している。
第三部「〈情〉を使う」には、主として「情」を自ら操り、その「技法」を駆使している方々による、実経験を通しての「情の技法」論を収めている。「花柳界の粋――もてなしの芸≠ノ見る芸者の情と心意気」(浅原須美)は、花柳界に多く取材してきた筆者による、芸者が持つ「もてなし」の技術と、その背後にある「情」のあり方の考察である。これらの背景には芸者が置かれてきた社会的に特殊な位置があり、社会構造の変化によってそのありようが変わりうることが示唆されている。「舞踏における怪物的身体」(石黒節子)は、自身による舞踏の実践にもとづく舞踏論である。インド舞踏における古典的な身体表現に言及しつつ、講座中に行った公演等を例示しながら、自己の舞踏表現のあり方を明らかにしている。「クラシック歌曲におけるアート・オヴ・パッション(情の技法)」(ボニー・ホーク)も、歌手である講師が講座にて行ったレクチャー・コンサートに基づくものである。ここでは「情」という言葉を英語の“passion”へと置き換えた上で、その語義の「受難」「受動」「激情」「性的欲望(恋愛)」という歴史的変遷をたどり、対応する各国の歌曲を取り上げて、曲と歌詞との相乗効果や、音楽史上の位置などが論じられている。「血と蜜――作詞と歌における情について」(宝野アリカ)は、作詞家であり歌手である筆者による自作論、創作論である。自らの作品の一節を引きながら、作詞に先立って提示される楽曲へ感応し、その「情」の作用が歌詞へと結実してゆくプロセスを解説している。「ロボットを創ることとは?」(藤田善弘、長田純一)は、電機メーカーで家庭用ロボットを開発する筆者らによる、開発の過程とフィールドワークの解説である。筆者らは、人間とインタラクションする人工物を開発する経験から、ロボット開発とは人間と人工物との新たな関係性を定義する試みであると考える。「ニコラ・テスラと発明の世紀――魔術師たちの時代の終焉」(新戸雅章)は、19世紀アメリカの大発明家テスラの業績をたどり、大発明家の時代が20世紀には組織的研究の時代へと変化した様を記述している。その上で筆者は、19世紀をさらにさかのぼる全人的科学者への郷愁が、マッド・サイエンティスト像を造り出し、さらには20世紀末のオカルト・ブームにのってのテスラ再評価につながったとする。「フィクションに生きる――女優・吉行和子による情の技法」(吉行和子)は、講座中に行われたインタービューの記録である。映画や舞台での代表作を取り上げ、演技の場においてフィクションを作り上げるプロセス、相手役や観客との相互作用が、具体的なエピソードを通して語られている。
これらの論文を一読するなら、「情の技法」は言わばどこにでも無数に存在し、時に伝承され、また新たに作り出されていることが容易に理解できるだろう。しかし大部分の収録論文が取り上げているような、専門的かつ高度に洗練された「情の技法」とは異なり、我々が日常の中で呼吸するように表出し、また受け取っている「情」とその「技法」は、ことさら意識して理解されることも、また言語化されることも稀である。しかし「情」とその働きが、「知」とその働きのように、我々のありようを決定し、その活動を構成する極めて重要な要素であることは言をまたない。遍在する「情」とその働きを、あくまで一般化された形で理解し記述しようと試みることは、我々が自らを理解する上で、極めて有益かつ不可欠な作業だと言って良いだろう。その道のりは遠いが、「情」という、この余りにも身近な、そして未だひどく掴み所のないものへの理解を進める上で、この論文集に収められた「情の技法」をめぐる数々の論考が、その一助となれば幸いである。
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