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ビフォア・セオリー ―現代思想の<争点>

第1章 モダンとポストモダン
1. 「モダニズム」の後の「ポストモダン
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a 「ポスト」の意味

 

 時代的な規定に関して、現代思想において近年もっともさかんに議論されてきた概念は、疑いなく「ポストモダン」(postmodern)という言葉であろう。ポストモダンという言葉は人口に上ること多く、建築から文学、哲学思想から社会現象にいたるありとあらゆるものに適用され、その内実を失ったまま曖昧に使われてきたというのが実状であろう。

 

 そもそも「ポストモダン」という言葉は、文字通りには理解困難な言葉である。その辺りの事情を、フランスの文学史家アントワーヌ・コンパニョンが分かりやすい問いとして提起している。「「モダン」が「今のもの」「現にあるもの」だとすれば、「ポスト」という接頭辞は何を意味するのだろうか。この接頭辞は矛盾していないだろうか。

 

 「現代性モデルニテ」がたえまない更新、時間の運動そのものだとすれば、この接頭辞が指示する、現代性の「後」とは何だろうか。どうして、ある時間が、時間そのものの後と称することができるのか。どうして「現在」が、その現在としての特質を否定できるのか」(Compagnon 1990 p.143f /200頁)。だれもが素朴に感ずる疑問であるが、これに対してコンパニョンは、「ポストモダン」が論争的な次元に属する語であり、そもそも「モダン」という語が複雑で背理的である分、「ポストモダン」もそれに劣らず複雑で背理的なものになるのだと返答している。あらかじめ言っておけば、ポストモダンを「モダン」の「後」というように漠然とした時代概念としてとらえようとすると、歴史的な経緯を見失うことになる。ポストモダンとは、かなり限定的な意味で、美学的、芸術史的な規定である「モダニズム」(modernism)の「後」で、モダニズムに対してとる特異な関係であると理解すべきである。すなわち、ポストモダンとはまず「ポスト・モダニズム」(postミmodernism)なのである。それでは遡って美学概念としての「モダニズム」、「モダニティ」とは何か。「モダニズム」に対して「ポストモダン」のとる関係とはどのようなものか。それらの問いにすぐさま答える前に、まず語「モダン」(modern)の略歴について述べておくことが適切であろう。

 

b 「モダン」小史

 

 マティ・カリネスクによれば(Calinescu 1987 p.13ff/23頁以下)、「モダン」という言葉の原型が現れるのは、五世紀後半のことであり、それはラテン語の「最近、たった今、目下」などを意味する副詞modoから派生した形容詞・名詞modernusである。「モデルヌス」は「現在のもの、今日のもの、話者と同時代のもの」を意味していた。したがって「モダン」なものとは、まず「古いもの、古代的なもの」つまり古代ギリシア・ローマ文化と対立するものであった。ここにヨーロッパにおいてはじめて「現在と過去」との対立が語として意識されるようになる。それ以前にラテン語にmodern/ancientの対立はなかった。キリスト教の時間意識は「神の国」へといたる直線的なものであり、時間は逆行せず、かならず前方へと流れるという認識が、古代の神話的な円環的時間構造を断ち切ったのである。また、キリスト教の支配が正当化された時代を、 異教の支配していた古代世界から区別する必要が生じたという事情もそこにあった。その後モダンという語は一貫してそのつどの時代が古典古代に対してもつ関係の意識として表される。それぞれの時代は「旧」から「新」への移行の結果であり、新たな時代をそのつど古典古代に対する関係として定義しなおす場合に自己を「モダン」と理解するようになったのである。

 

 ルネサンス期に歴史時代を古代、中世、近代に区分する考え方が登場する。しかし、カリネスクによれば、むしろ重要なのはその区分に、光と闇、昼と夜、目覚めと眠りのといったメタファーが読み込まれていることである。古典古代はまばゆい「光」に喩えられ、中世は「暗黒時代」とみなされ、近代は暗黒からの脱出、すなわち「新生」の時代とみなされたのである。

 

 さらに時代が下り18世紀には過去三世紀を振り返り、それらが「新しい時代」であり、「現代」(modern times, temps modernes, moderne Zeit)であると表現するようになる。「新大陸」の発見、ルネサンス、宗教改革というヨーロッパにとって「世界史的」な事件が、中世と近世との境界線として意識されるようになったのである。しかしながらその歴史過程を通じてながらくは古典古代(antiquitas)は、なおも規範的なものとしての地位を保ち続けていた。古典古代の文化はまだ模倣の対象であった。古典古代の規範と訣別するプロセスは、18世紀初頭フランスでおこなわれた〈古代派と近代派との論争〔新旧論争〕(Querelle des Anciens et des Modernes)によって開始される。近代派は、古典派を批判するに際して逆説的にもアリストテレスの「完全性」概念に依拠する。それによって古代人が完全性ヘの要求のどの点で挫折するのかを批判的に 説明しようとした。近代の自然科学がすでに暗示していたような「無限の進歩」の概念に完成の概念を同化したのであった。「近代人」たちは、「古代人」が与えた模範を模倣する意味を、歴史的批判に依拠して検討する。一見時代を超越した「絶対的な美」の規範に対して、時代に拘束された「相対的な美」の基準を考え出した。そうしてフランス啓蒙思想は自己をひとつの「新たな時代」の開始であると理解するようになった。

 

 やがてモダンは、「古典的」なものに対して「ロマン的」なものを対置させ、ロマン的は「ロマネスク」の意味を離れて、むしろ理想化されたキリスト教的中世を求める語となった。「ロマン的」がモダンと同義になったのである。しかし、ロマン主義はやがて特定の時代を理想化することをやめ、古典主義が昨日のロマン主義にすぎない、時間的な新旧を表すだけのものになる。こうして、およそ歴史的な前史から自分を解放するモダンのラディカルな意識、つまり「現代性」(modernity, modernit*, Modernit閣)の意識を生み出すことになる。歴史意識として残るのは、「伝統」と「現代」との対比だけとなった。

 

c ボードレールにおける「現代性モデルニテ」

 

 以上のような「モダン」の語義の変遷を経て、ようやく19世紀半ばにモダンはその明確な意志を一人の明晰な詩人・批評家のなかに見いだすことになる。もちろんそれはボードレール(1821-67)である。「現代性モデルニテ」はボードレールの発明とされる(Compagnon 1990 p.28/46頁)。しかしボードレールが現代性に対してとる態度は当初からアンビバレントであった。なぜなら〈新しさ〉のもつ美をなによりも芸術の現在性と結びつけ、モダニズムの始祖と目されるボードレールは、同時にヨーロッパ社会の近代化や、産業の進歩の観念には激しい敵意を抱いていたからである。

 

 コンパニョンはボードレールの眼に「現代性」を体現する存在としてドラクロアとコンスタンタン・ギースというまったく性格の異なった画家があったことを指摘している。ドラクロアはアカデミー派画壇とは違って画題として同時代のもの、現在のものを多く選んだ。したがって、現代性とはまずなによりも過去に対抗して現在の味方をすることである。そしてさらにボードレールは1863年に公表した著名なエッセイ「現代生活の画家」では、現代性の〈二重性〉を明確に定式化する。ボードレールは日刊紙にクロッキーを描くギースのなかに現代性の理想的な姿を見いだすのである。とはいえ、ギースとはボードレール自身の散文詩が体現しているような現代性の写し鏡だと考えた方がいいだろう。現代性の芸術こそボードレールにとっては真の芸術であるから、それは芸術そのものの定式をも意味する。ボードレールによれば「現代性とは、一時的なもの、うつろいやすい、偶然的なものであり、これが芸術の半分をなす。そして後の半分が、永 遠のもの、不変のものである」(Baudelaire 1863 p./169頁)。前半はまさに、うつろいやすい現在をとらえる感覚としの現在性の擁護である。現在をとらえるにあたって役立たない過去と訣別し、直接的な現在をとらえようとする志向が強固である。現在をとらえるのに古典的なものもロマン的なものも役にはたたない。「現代性とはしたがって、現在を、過去も未来もない、たんなる現在としてとらえる意識である」(Compagnon 1990 p.31/49頁)。さらに後半のくだりにあるように、現在が関係するのはもはや実在的な時間ですらない。現在が関係を結ぶ相手は、永遠だけである。〈新しいもの〉がたえず変化し、更新されながら、昨日の新しさが今日は〈古いもの〉に姿を変える「新しさの老化」に抗して、ボードレールは、永遠なもの、非時間的なものを対置するのである。しかしまた永遠を描くにはどうしても現在の一過的な素材を用いねばならない。「一時的で、うつろいやすく、かくも頻繁に変貌をとげるこの要素を、あなた方は軽蔑する権利もなければ、これなしですます権利もない。この要素を抹殺するならば、否応なしに、たとえば人類最初の原罪以前の唯一の女性の美といった類いの、抽象的でとらえどころのない美の、空虚のなかへと落ち込むほかはない」(Baudelaire 1863 p./169頁)。つまり、現在の素材のなかに永遠を定着させるという〈二重性〉こそがボードレールのいう現代性なのである。この現代性の二重性は究極的には人間そのものの二重性に由来するとボードレールはみている。「芸術の二重性は、人間の二重性の宿命的な帰結である。お好みとあれば、永遠に存続する部分は芸術の魂、変化する要素はその身体と思っていただきたい」(ibid. p./ 同上154頁)。

 

d ダンディと憂愁

 

 より重要なことは、ボードレールがモダンを定義するにあたって、もう一つのモダン、すなわち社会的近代、社会的モダンに対して矛盾した態度を示すことである。最初に触れたように、ボードレールは進歩や新しさの更新を盲信する社会の近代化に対しては敵意を抱いていた。ボードレールは、現代性をとらえるのに過去は不必要であると考えながらも、同時に、高貴な時代が消滅しブルジョワ的功利主義が蔓延していくことを慨嘆する。いきおいボードレールの現代性は、社会の現代化への抵抗の側面を合わせもつようになる。それは同時代に対する反俗的な抵抗の態度となり、また同時代人には自分の芸術を理解されないという断念や憂愁の気分を生む。このような態度を典型的に示すのは「ダンディ」という生き方である。「ダンディズムは一個の落日である。さながら傾く太陽のように、壮麗で、熱を欠き、憂愁に満ちている」(ibid. p./ 同上195頁)。この態度には、今後一世紀にわたるモダニズムの歴史の根本的な気分を決定づけるものがある。あとにリオタールはポストモダンの根本的な態度がこの「憂愁メランコリー」の気分との訣別であると述べるようになる。

 

 審美的に社会の進歩を拒むことでボードレールは、一挙に「現代性」と「永遠」とを結びつけた。だがその結果、ボードレールにおいて、現代性の認識には一種の否定性が含まれることになる。ボードレールは『悪の華』や『パリの憂鬱』のなかで、都市、民衆、遊民(fl穎eur)、ダンディ、娼婦、賭博、倦怠、憂愁、日常的なものと悪魔的なものをくり返し素材として取り上げる。これらの現在性の素材の取り合わせは、ボードレール以前にはとても詩の題材になるようなものではなかった。これらの素材の取り合わせが「詩」ヘと昇華されるには、芸術家自身の「想像力」を必要とする。ボードレールにとって、現在性/現代性は芸術家によって模倣されるべき「現実」ではなく、究極的には芸術家の想像力の産物である。芸術家は想像力によって、観察可能な日常生活の見かけを越えて、現在の素材同士が「照応関係」(correspondances)をつくる現在と永遠とが融合した世界を見出すのである。ボードレール以降「モダンの美学」、モダニズム は一貫してリアリズムに反対する「反リアリズム」となる。

 

e 現代性の指標

 

 コンパニョンはボードレールがギース論で論究している「現代性」の作品の特徴を五つ抽出している(Compagnon 1990 p.34f/53頁以下)。それらは、そのままボードレール以降の芸術の現代性そのものを表す指標として理解してもさしつかいないだろう。それはすなわち(1)未完成(non-fini)(2)断片性(le fragmentaire)(3)無意味(insignifiance)ないし意味の喪失、あるいは有機的な統一や全体性の拒否(4)自律性(autonomie)、批評意識である。ここにあげられた項目は、かなり広い射程で歴史的なモダニズム芸術の特徴を言い当ててもいる。われわれが典型的なモダニズムの作品の特質として想起するのは、例えば絵画におけるリアリズムからの離脱(印象主義)、抽象化と表層化(キュビズム、抽象絵画、表現主義)、文学にみられる作品の本質的な未完結性(カフカの三大長編はいずれも未完である)、通常の物語の語りの解体(ジョ イス)あるいは通常の時間意識の解体(フォークナーの『響きと怒り』)、本質的な不在性(『ゴドーを待ちながら』のゴドーの不在)、創作過程への言及や作品の円環的な構造(プルースト)、作品が同時に自己批評であること(T・Sエリオットの『荒地』に付された詳細な注)、また音楽においては調性からの離脱(シェーンベルク)などであるが、それらは上記のボードレールに見られる四項目とかなり重なり合う。さらにもう一つ大きな特徴としては、モダニストたちが共通にもっていた(5)大衆文化とキッチュへの敵意をあげることができる。ボードレールに始まりアヴァンギャルドの運動を経て1960年代には完全に退潮に入ったモダニズムを、単に歴史化するのではなく、今日にとっても意味あるものとして理論化するには何を述べればよいだろうか。

 

 
著者プロフィール:田辺 秋守 (たなべ・しゅうじ)
1960年生まれ。 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻博士課程満期退学。
ドイツ、ボッフム大学、ベルリン自由大学留学 慶應義塾大学、城西国際大学、東京工芸大学、早稲田大学、各非常勤講師。
専攻:現象学、批判理論、現代思想論、 論文:「美的仮象の現出――アドルノ美学のモチーフ」(「現象学年報13」)、「問いかけの思考から応答の思考へ――ヴァルデンフェルスのメルロ=ポンティ論」(「メルロ=ポンティ研究第四号」)、「統一か自由か――ヤスパースとドイツ統一問題」(「コムニカチオン第11号」)等
 

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