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ビフォア・セオリー ―現代思想の<争点>

「序」
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 ヨーロッパ語には、「現代思想」に文字通り対応する語は見当たらない。試みに「現代思想」に英/仏/独語を当ててみると、その人工性が如実に感じられる。contemporary thoughts, penseé contemporaine, zeitgenösisches Denken、こうしたタイトルの書物がまったく存在しないわけではないだろうが、ジャンルにまで特定されているかというと、疑問である。欧米の大学には「現代思想」なる科目は見当たらないし、欧米の大学街の書店に「現代思想」という棚があるわけでもない。つまり「現代思想」という表現は和製なのである。それでは、「現代思想」というジャンルは特殊日本的なものなのか?そんなはずはない。本書で取り上げるのはすべてヨーロッパと北米の著作家たちである。ヨーロッパ語圏において日本語でいう「現代思想」や「現代思想家」にあたる指示対象は確実に特定できるし、毎日その著作を眼にすることができる。ただ、それらを名指す名辞が日本語とヨーロッパ語では一致しないのかもしれない。例えば、英語圏ではフレドリック・ジェイムソンの次のような文言に出会う。少々長いが引用してみよう。

 

 「このようにジャンルや言説の古いカテゴリーが消滅しつつあることは、かなり違った形でではあるが、contemporary theoryと時たま呼ばれているものの中でも、見出すことができる。一世代前には、職業的哲学の専門的言説というものが、まだ存在していた。サルトルや現象学者たちの偉大な体系、ウィトゲンシュタインや分析哲学や日常言語学派の哲学の著作がそれである。また、哲学の言説は他のアカデミックな学科の言説、たとえば政治学や社会学や文芸批評の言説からは、はっきりと区別することができたのである。今日われわれは、そうした学科のすべてを含むと同時にどれにも属さず、単に「理論セオリー」とだけ呼ばれるような種類の言語表現を、しだいに多く目にするようになってきた。こうした新しい種類の言説は、一般にはフランス、あるいはいわゆるフランス的な理論に結びついているのだが、だんだん広範囲に広がりつつあり、哲学らしい哲学の終わりを告げるものとなっているのである。たとえば、ミシェル・フーコーの仕事は、哲学と呼ぶべきなのだろうか、それとも、歴史、社会理論、政治学のいずれと呼ぶべきなのだろうか? 今日言われているように、そんなことは決定できないのである」 (Jameson 1983 p./202頁)。

 

 ジェイムソンはここで、「哲学」という伝統的な言説を中心としつつも、すでにそれには収まらないタイプの複合的、脱領域的な「理論」が出現しつつあることを指摘している(※1)。そしてこのテクストの邦訳者は、contemporary theoryを(おそらく)迷うことなく「現代思想」と訳しているのである。ジェイムソンのいうところを信ずるなら、「現代の理論」(contemporary theory)が遭遇している事情は日本でもたいして変わらないことに気づく。ジェイムソンが例に挙げているフーコーこそ日本でも「現代思想」のもっとも典型的な著作家であり、「現代思想」が、一時期ほどではないにしても、フランス的な言説と結びついている点でも同じである。筆者としては、「現代思想」をこのジェイムソンのいう「現代の理論」程度に理解している。

 

 というわけで、現代思想を「現代/の/についての/のための/理論」と表現する以外に差し当たりは説明のしようがない。これは「現代思想」の定義が不可能であるというのとはちがう。ただ、それを厳密に定義することにはあまり意味がないということである。現代思想を精密に定義しようとして、その具体的な事例に言及していけば、もうそれはすでに現代思想の営為そのものを示すことになる。つまり、本論に入ることになる。ただし、現代思想のいくつかの顕著な特質についてなら述べることができるし、またそれを知っておくことは有意義であると思う。
 筆者が取り上げる現代思想の大まかな特質は四つほどある。

 

  • (1)アクチュアリティー(actuality)
  • (2)脱領域性(extraterritoriality)
  • (3)ラディカリズム(radicalism)
  • (4)論争的性格(polemic)

 

 第一に、どのような現代思想であれ、時代の「アクチュアリティー」を問題にしない現代思想というものはない。アクチュアリティーという語は日本語に翻訳しにくい言葉である。「現実性」「顕在性」「現状」、あえて言うなら「現在性」というところだろう。現代思想はわれわれの時代と社会と人間のアクチュアリティーを問う。ただし、その場合目に見えて、顕在的に現れている現象を、その意味でアクチュアルな現象だけを追求するのではない。表層的な現象に隠れて深層で進行していることを明らかにするのが、理論的な知の役割である。

 

 第二の特質は、ジェイムソンが上で述べていることであるから、繰り返すまでもないだろう。現代思想の分野として考えられるのは、いわゆる人文科学というおおまかな学問分野のなかに位置するが、決して一学科には収まりきらない「脱領域的な」理論知である。哲学から精神分析、芸術理論から社会学、システム論から都市論、女性学からエコロジーにいたる広範な領域にわたって、少なくとも複数の学問領域を横断するような知である(本書でそれらすべての領域をカバーできるわけでは毛頭ないが)。  第三の特質として「ラディカリズム」を挙げることができる。これはかならずしも政治的な立場の問題ではない。むしろ、根源的、根底的、徹底的にその問題を問うという姿勢のことである。えてしてラディカルな思考は懐疑的であったり、過剰に挑戦的であったり、秩序転覆的であったりする傾向がある。したがって現代思想は、穏健で位置づけのはっきりした制度的な思考とは相いれない傾向を自ずともっている。

 

 最後に、第三の特質からの当然の帰結として、現代思想の領域にはほぼ定まった標準的な「通説」のようなものはない。複数の有力な議論が存在するだけである。それらの間にはかならず対立する「争点」が存在し、多くの場合論争がおこなわれ、批判と反批判がなされる。現代思想は「論争的」なのである。

 

 したがって、現代思想は、時代のアクチュアリティーを問題にする、いくつかの領域にまたがる、ラディカルで、論争的な「理論」ということになる。

 

 本書は現代思想の論争の「争点」となってきた問題を、あるいは今でも「争点」であり続けている問題をいくつか選びだし、その議論を再構成した。叙述の都合で、思想家の固有名が「争点」の区分になることは避けられないとしても、本書ではできるだけ現代思想の「争点」自らが思想を語るように構成を考えたつもりである。できれば、十九世紀なかばに生まれた驚くほど長命なただひとりの〈思想家〉の内的な対話として、現代思想を考えたいくらいである。あるいはまったく逆に、A、B、C・・・という匿名的 な思考の諸タイプとして現代思想を想定したい。現在のアクチュアリティーを捉えるには、そうした論点を必然的に通過しなければならない思考のタイプとして。

 

 本書の各章は原則的に独立していて、各章読み切りの形になっているのでどこから読んでもけっこうである。ただし「知」が累積していくことを良しとする読者は、第1章から順次読んでいただきたい。「争点」をひとつひとつ吟味することで、段階的に「理論知」が進行する様子がそれなりに認められるはずである。

 さて、ようやく「理論」の前に立つことになった。さっそく「理論」のなかへ入ることにしよう。

 


※1 ジェイムソンはそうした「理論的言説」のありかた自体が「ポストモダン」の特質だというのだが。ジェイムソンのポストモダン論については本文第1章4節を参照のこと。

 

 

 
著者プロフィール:田辺 秋守 (たなべ・しゅうじ)
1960年生まれ。 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻博士課程満期退学。
ドイツ、ボッフム大学、ベルリン自由大学留学 慶應義塾大学、城西国際大学、東京工芸大学、早稲田大学、各非常勤講師。
専攻:現象学、批判理論、現代思想論、 論文:「美的仮象の現出――アドルノ美学のモチーフ」(「現象学年報13」)、「問いかけの思考から応答の思考へ――ヴァルデンフェルスのメルロ=ポンティ論」(「メルロ=ポンティ研究第四号」)、「統一か自由か――ヤスパースとドイツ統一問題」(「コムニカチオン第11号」)等
 

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