本書は、Ian Hacking, The Emergence of Probability: A Philosophical Study of Early Ideas about Probability Induction and Statistical Inference(Second Edition), Cambridge University Press, 2006 の全訳である。
本書では、確率概念がどのようにして現在のような近代的な意味で使用されるようになったのかという問題が論じられている。確率は科学だけでなく、政治、経済、日常生活にも溢れている。いまや確率なしでは生活できないほどである。近代的な意味で確率が使われるようになったのは1660年頃である。なぜ確率は出現したのだろうか。そして、当時の出来事は現在の確率の理解にどんな影響を及ぼしているのだろうか。本書は、確率が出現する前後に起こった出来事を丁寧に分析し、こうした問題に答えを与える。
本書は確率論の歴史を扱ってはいるが、ハッキングはこれを歴史書として位置づけていない。あくまで哲学の本だと強調する。本書は分析哲学の本であり、フランスの哲学者ミシェル・フーコーによる知の考古学の手法を実践した本でもある。つまり、確率の概念を分析するのに、それらの概念が形成された当時の知的空間に遡るのである。そのため、確率の生みの親とされるブレーズ・パスカルを唯一無二のヒーローだとは考えない。ホイヘンス、ぺティ、グラント、ヒュッデ、デ・ウィット、ベルヌーイなど数多くの人物が登場し、みなが主人公である。贅沢にもライプニッツは当時の証人の配役を命じられる。怪しげなフラカストロやパラケルススまで登場するのだが、彼らはむしろ主役級の活躍をみせる。確率の出現は、一人の人物が達成した偉業ではなく、歴史的に起こるべくして起こったのである。これは本書におけるハッキングの重要な主張の一つである。
ハッキングは日本でも人気の高い哲学者で、これまで六冊もの著作が日本語に訳されている。確率や統計の概念分析、言語哲学、科学実在論、社会構成主義、心の本性など、テーマは非常に多彩であり、著者の博識ぶりには脱帽する。本書も著者の博覧強記ぶりがいかんなく発揮されており、そのため翻訳作業は困難を極めることとなった。幸いにも、昨年邦訳されたハッキングの論文集『知の歴史学』(出口康夫・大西琢朗・渡辺一弘訳、岩波書店、2012年)は彼の知の裏側を垣間見ることができ、読者が本書を読み進める上でよい手引きとなるだろう。ハッキングの経歴については他の訳書に詳しく書かれているので、ここでは簡単な経歴紹介にとどめることにする。ハッキングは1936年にカナダのバンクーバーで生まれ、ブリティッシュコロンビア大学で数学と物理学を学び、ケンブリッジ大学で哲学の博士号を取得した。その後、ケンブリッジ大学、スタンフォード大学、トロント大学、コレージュ・ド・フランスなどで教鞭を取り、現在はトロント大学の名誉教授である。(本書訳者あとがきより一部抜粋)
|