第20回 「風雲? 北白川城! ―付:ふたたび休載にあたって」 を公開!
人文研探検―新京都学派の履歴書(プロフィール)―| 菊地 暁(KIKUCHI Akira)
   
 
   
 
   
 

「人文研探検―新京都学派の履歴書(プロフィール)―」
第15回

北白川と人文研
―『北白川こども風土記』を読む―

 

 「これはおどろくべき本である。子どもというものが、よい指導をえた場合にはどれほどりっぱな仕事をすることができるか、ということをしめすみごとな見本である」*1。そう梅棹忠夫は絶賛した。その本とは『北白川こども風土記』(1959)[写真1]*2。京都市立北白川小学校の児童48人による、郷土・北白川を描き出した第一級の「地誌」であり「郷土史」であり「民俗誌」である*3。その作成の様子は学研『四年の学習』に記されている。

 

この「北白川こども風土記」は北白川小学校の四年生が、三年間かかって、きょう土のようすを調べたものです。本を調べたり、おじいさんや大学の先生にお話を聞いたり、大学のちん列室や博物館に行ったり、また実さいの場所に行ったりして、調べあげた、りっぱな風土記です*4


 

 


写真1. 『北白川こども風土記』扉。版画は児童の作。


 戦後、新制教育の開始にともなう社会科の実施により、身近な郷土の歴史と文化が児童の学習課題としてクローズアップされ、戦後の民俗学や歴史学とも呼応した意欲的な学習実践が現れたことは相応に知られている*5。とはいえ、全国各地で展開された多様な実践の詳細とそれらの総体的な評価はなお不十分であり、人文研のお膝元・北白川で書き上げられた『こども風土記』についても、具体的な検証は今後の課題といって差し支えないだろう。今回は、そのためのささやかな準備として、『こども風土記』をひもときつつ、北白川と人文研、京大の関わりについて考えてみたい。

 

 まず、北白川の歴史を確認しておこう。比叡山南西麓を流れる白川の作り出した北白川扇状地は、京都盆地でも最初期に人が住み始めた土地であり、人文研分館の敷地を含む「小倉町遺跡」もその一つである。白川に沿う「志賀越道」は都と近江坂本を結ぶ重要な交通ルートであり、それゆえ、室町末期には「北白川城」が築かれ、足利将軍の拠点としても利用された。近世には純農村となったが、市中の寺院に仏花を供給する「白川女」など、市中のニーズに即した一種の近郊農業が成立する*6。幕末から明治大正期にかけては、土地の名産である「白川石」を用いた石材業が発達し、また、白川に水車が林立し、それを利用した伸銅などの製造業も発展する。その結果、農業への依存は低下し、農地は高級住宅地として整備されることとなった[写真2]。この開発が始まったばかりの住宅地に建てられたのが東方文化学院京都研究所である[連載第7回の写真2参照]。そして、昭和20年代後半、北白川の地は土着の「花うり族(≒近郊農家)」と新来の「大学族(≒学者・サラリーマン)」が二分する様相を呈していた*7。こうした地域で『こども風土記』が産み出されたわけだ。


 

 


写真2 . 「大正10年測図京都市都市計画基本図」『北白川こども風土記』所収。
この時点で民家は右下を通る「志賀越道」に集中し、
上部の大半は農地となっている.


 北白川小の児童たちが地道に調べ上げた『こども風土記』には、興味深いエピソードが無数に記されている*8。たとえば、天皇陵の説明。

 

農学部付近にある後二条天皇のごりょうの辺を、昔は「福塚」と呼んでいたので、その辺の地名も同じように福塚というようになって、今でも、土地の年寄りの人々の中には、福塚とよんでいる人もいるそうだ。[中略]そのころには、まだだれも後二条天皇のごりょうだということは知らないで、ただ福塚といって神様がいるのだと思っていたのだが、明治二十二年に、国でくわしく調べた結果、今まで福塚とよばれていた所が、九十四代目の後二条天皇のお墓だということがわかったわけだ。(河野春樹「古い地名は生きている」pp.283-284)

 

 京大北部キャンパスに隣接する後二条天皇(在位1301-1308)の陵墓が、明治以前はそれとして知られていなかったという指摘である。近代国家としての体面を整えるべく、明治政府が「万世一系」を強力に構築していく過程において、こうした天皇陵の「発見」は各地で展開された*9。これもその一例といえる。さらに興味深いのは、こうした「発見」の一方、村人に「秘匿」された陵墓があったことだ。

 

[北白川村内にある]賀茂社が昔から桓武天皇のごりょうだという伝説があったのを、村人たちが信用していたらしい。[中略]それで、そういうことが政府に知れると、もちろん調べられることになり、もしそこが天皇のごりょうだと定められるようなことになると、ごりょうを広めるため四方の田畑や家などがとりのぞかれ、生活にこまることになるから、そこで村人たちが相談したけっか、とうとう賀茂社を天神さんにうつしてしまったそうだ。そして鳥居などはつぶして、御殿橋のあたりの石がきや小さな石橋につかったり、五輪のとうを地中にうめてしまって、そこが、ごりょうのあとでないことをしめすためにいろいろくろうしたそうだ。(山根祥司「知られていない遺跡や史跡」p.53)

 

 北白川に「桓武天皇のごりょう」があるという歴史意識を共有する村民たちが、生活空間を保持すべく、相諮ってその遺跡を処置し、公式認定を免れようとしたというのだ。とりたてて認識されなかったためにそのまま御陵となった「福塚」、認識されていたために秘密裏に処分された「桓武天皇のごりょう」。陵墓が密集するこの地域ならではのイレギュラーかもしれないが、天皇陵に対する歴史意識の形成を考える上で、興味深い事例であることは間違いない。

 

 人文研所員である歴史地理学者・森鹿三(1906-1980)が『こども風土記』に「序」を寄せるなど、人文研スタッフとの関わりも少なくない*10。もっとも活躍するのが、第二章「郷土の遺跡」に登場する羽館易(1898-1986)である。仏教美術写真の老舗である奈良・飛鳥園を経て東方文化研究所スタッフとなった羽館は、雲岡発掘の際、過酷な現場で撮影スタッフとして奮闘した写真家だが、彼はここでは考古学者ないし郷土史家として登場する。

 

[『京都の歴史』(1954)に]「実は、小倉町遺跡が発見されたのも、ここに羽館さんという熱心な方がおられて、お仕事のあいまにとうとう大きな石器時代遺跡のあることを発見せられたのです。」と書いてあるのに気がついたので、ぼくはぜひこの小倉町遺跡を発見された羽館先生にあって、いろいろとお話をお聞きしたかったので、そのことを先生にお話しすると、先生は日をきめて羽館先生の家へつれて行ってくださることになった。(本岡俊郎「石器時代の北白川―小倉町の遺跡―」p.30)

 

 小倉町遺跡は、宅地開発のために地ならしをしているところを散歩中の羽館が発見したものだった。本岡少年は、その発見者から直に遺跡のあれこれを学び、この文章を書いている。さらに、羽館の発掘した資料は京大文学部陳列館に寄贈されていることを知り、後日、同陳列館を訪問して見聞を深めている。ちなみに、このとき児童たちを案内したのは、先日他界した京大名誉教授の考古学者・樋口隆康(1919-2015)だった。

 

 学区に住む郷土史家ばかりではない。児童たちの父兄も本書のクオリティを支える強力なサポーターだ。たとえば、次の「おとうさん」。

 

去年の九月ごろでした。滝本先生のお家の工事場から、「花のもようのまるいかわらが出たから、たいせつなものかどうか見てください。」と言って持ってこられました。おとうさんはそれを見て、そのかわらが北白川廃寺の物であるということが、すぐわかりました。(小林節子「北白川の廃寺あと」p.45)

 

 宅地から出土した瓦の破片が、広隆寺に匹敵する京都最古の寺院「北白川廃寺」のものであることを即座に見抜くこの「おとうさん」がただ者であろうはずがない。「小林」という苗字でピンと来る方もいるかと思うが、後に京大名誉教授となる考古学者・小林行雄(1911-1989)である。人文研の水野清一ともたびたび調査・発掘を共にした当代屈指の考古学者が父兄として控えていたわけだ。後日、小林の娘と数人の友達と先生は、「廃寺のかわらと基壇」の見学に「おとうさんの研究室」を訪ねている(p.48)。
 もう一人、紹介しよう。

 

ぼくはある日、おとうさんからこんな話をしてもらった。今から何千万年も大昔は、京都盆地から丹波高原にかけては海が入りこんでいて、大きな入江になっていたそうだ。ところが、それも長い間かかって、だんだんと水がひいていったあとには、へっこんだ京都盆地の付近に海水がたまって、それが湖になっていったと言われているそうだ。[中略]ぼくのおとうさんは、地形の移り変わりや、土地の発達などについて研究しているので、北白川の地形の移り変わりについても話してもらった。(藤岡換太郎「湖から盆地へ―北白川の地形―」p.204)

 

 この「地形の移り変わりや、土地の発達などについて研究している」「おとうさん」も当然ながらただ者ではない。京大名誉教授となる地理学者・藤岡謙二郎(1914-1985)である。藤岡はPTA関係の刊行物にもたびたび寄稿しており、後に『北白川と嵯峨野―大都市周辺地域の人文地理的モノグラフ―』(1965地人書房)という共著を刊行しているほどだ。ちなみに、換太郎少年は後に海洋地質学者となり、「日本で最も多く深海を訪ねた地質学者」と称されている*11

 

 『こども風土記』は、こうした児童の父兄である第一線の研究者たち、そして彼らによって集められた発掘品等の学術資料を参照して書かれている。きわめて優れたクオリティを誇るにもかかわらず、それが左京区以外ではさほど取り沙汰されていないように見受けられるのも、おそらく、このあまりに特異な京大との関係が、他地域の教育者にこれを範とすることを躊躇させたからだろう。

 

 最後に、「小さなおじぞうさんたち」を紹介してこの稿を終えよう。京大北部キャンパスの一画には、石のお地蔵様がまつられ、毎年8月下旬になると地元の子どもたちのために「地蔵盆」が行われている[写真3・4]。

 

 

 


写真3. 京大北部キャンパスで行われる地蔵盆。2012年8月25日筆者撮影。


 


写真4. 京大北部キャンパスで行われる地蔵盆。2012年8月25日筆者撮影。

 このお地蔵様たち、キャンパス工事の際に掘り出されたものであり、『こども風土記』に次の記述がある。

 

大正十年ごろ、追分町のへんに、大学の地質学教室を建てる時、地ならしをしていると、一メートルほどの地面の中から、高さ三十センチぐらいの石のおじぞうさんが、五十こ以上もほり出されてきたそうです。
それで、工事をしていた人夫さんたちは、そのおじぞうさんたちを工事場のかたすみに、雨などにうたせて、らんぼうにつんだままにしておきました。そんなことをしてばちがあたるとは、人夫さんたちも思わなかったのでしょう。ところが、それからというものは、人夫さんの中には、毎日のようにけがをしたり、ひどい人になると屋上からおちて死んだりする人もでてきました。
そこではじめて、人夫さんたちは、「これはなにかのばちがあたったんだ。」と言い出すようになりました。
また大学の方でも、それはおじぞうさんをほったらかしにしていたから、ばちがあたったのだと思って、それからは、農学部の電車のていりゅう所に近い、本屋さんの横のあき地に、おじぞうさんのお堂をこしらえて、ていねいにまつるようになったということです。
またその時、名高い湯川博士のおとうさんは、自分の研究所のそのじぞうさんをわざわざもってきて、ばちがあたらないようにとまつったという話です。(岩本哲哉「小さなおじぞうさんたち」p.75)

 

 よくある地蔵伝説だ。が、その所在が大学構内であり、その地蔵が今なお祭られている点はやはり興味深い。そして何より、「名高い湯川博士のおとうさん」、すなわち、本連載にもたびたび登場した小川琢治(1870-1941)にまつわる伝説である。面白い、と言わずしてなんと言おうか?

 

 もとより、小川が地蔵を祭ったか否かは定かではない。おそらく、そんなことはしなかっただろう。が、それはそれとして、大学人が地元住民の生活世界の内部にしっかりと刻み込まれていることは、けっして悪いことではない。互いに理解し合えているわけではないが、その存在を認め、共に在ることが肯定される。そんな大学と地域の距離感を、この伝説に読み込むことができるかもしれない。

 

 以上、北白川と人文研について、『こども風土記』を読みながら、思いつくままメモしてみた。取り上げるべきテーマは、まだまだありそうだ。稿を改めて考えてみたい。求む情報。

 


(次回2015年10月に掲載予定です。ご期待ください。)




   
*1   梅棹忠夫1959「書評:北白川小学校編『北白川こども風土記』」『日本読書新聞』1000。引用は梅棹忠夫1987『梅棹忠夫の京都案内』角川選書p.276より。
   
*2   京都市立北白川小学校編1959『北白川こども風土記』山口書店。以下『こども風土記』と表記。引用のさいに改行は適宜改めた。
   
*3   注1p.277。
   
*4   松本二男・大山徳夫1959「〈社会科〉ぼくたちの作った北白川こども風土記」『四年の学習』1959年8月号p.71。なお、この大山徳夫が『こども風土記』の中に「大山先生」として登場する、本書作成の中心人物なのだが、その経歴や業績について、今のところ筆者の調査が及んでいない。北白川小学校創立百周年記念委員会編・発行『北白川百年の変遷』(1974)によると、1949年10月から1960年4月に在職とあり、『こども風土記』刊行後に転出したようである。
   
*5   小国喜弘2001『民俗学運動と学校教育―民俗の発見とその国民化―』東京大学出版会、同2007『戦後教育のなかの〈国民〉―乱反射するナショナリズム―』吉川弘文館、など参照。拙著2001『柳田国男と民俗学の近代―奥能登のアエノコトの二十世紀―』吉川弘文館の第二章でも、社会科の実施が地方教員の民俗学運動の担い手となっていく重要な契機の一つであったことを指摘している。
   
*6   なお、白川女については、平安時代の貴族・三善清行が白川の女性に命じて御所へ花を届けさせたことから始まると伝えられているが、花売りに特化していくのは江戸時代と考えられている。
   
*7   梅棹忠夫1951「大学と花売り」『毎日新聞』7月29日。同1987『梅棹忠夫の京都案内』角川選書、所収。
   
*8   同書は「1大文字の送り火」「2郷土の遺跡」「3郷土の史跡」「4郷土の氏神様と祭」「5人物についての物語」「6郷土の産業と風俗」「7郷土の発展」「8その他」の8章構成となっている。うち、8は、教員が作成したと推測される関連資料集で、たいへん充実したものである。
   
*9   高木博志2006『近代天皇制と古都』岩波書店 など参照。
   
*10   研究所周辺に住む所員はその子弟を北白川小学校に通わせており、PTA「育友会」の役員には、森のほか、吉川幸次郎、能田忠亮なども名を連ねている。
   
*11   竹内章2003「書評:藤崎慎吾・田代省三・藤岡換太郎著『深海のパイロット』」『火山』48/6:521
   
 
   
 

 

 
     
 
本書の詳細
   
   
 

 桑原武夫、貝塚茂樹、今西錦司、梅棹忠夫ら、独自の作法で戦後の論壇・アカデミズムに異彩を放った研究者たち。新京都学派と呼ばれた彼らの拠点こそ、京都大学人文科学研究所(人文研)でした。気鋭の民俗学者が人文研の歴史に深く分け入り、京都盆地の、そしてそこから世界に広がる知のエコロジーを読み解きます。
 伝説的な雑誌『10+1』INAX出版)誌上で始められ、その休刊とともに中断していた連載を、ここに再開します。屈曲蛇行する探検の道のりに、どうぞお付き合いください。

   
 
   
著者・訳者略歴
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菊地 暁
(KIKUCHI Akira)

京都大学人文科学研究所助教、文学博士。民俗学専攻。
〔著書〕 2001『柳田国男と民俗学の近代―奥能登のアエノコトの二十世紀―』吉川弘文館、2005(編)『身体論のすすめ』丸善。
〔論文〕2012「〈ことばの聖〉二人―新村出と柳田国男―」(横山俊夫編『ことばの力―あらたな文明を求めて―』京都大学学術出版会)、 2010「智城の事情―近代日本仏教と植民地朝鮮人類学―」 (坂野徹・愼蒼健編『帝国の視角/死角 〈昭和期〉日本の知とメディア』青弓社)、2008「京大国史の「民俗学」時代―西田直二郎、その〈文化史学〉の魅力と無力―」(丸山宏・伊従勉・高木博志編『近代京都研究』思文閣出版)、2004「距離感―民俗写真家・芳賀日出男の軌跡と方法―」(『人文学報』91)など(詳しくは、ここを参照)。

参考情報:「INAX出版」ウェブサイトはこちら

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