「人文研探検―新京都学派の履歴書(プロフィール)―」
第14回
南方熊楠と人文研
―四者四様の接点から―
いま、南方熊楠がブームなのだろうか。どういうわけか立て続けに南方について寄稿する機会を得た*1。膨大な先行研究をざっくりとノートするだけで、特にめぼしい発見もなくお恥ずかしい限りなのだが、その執筆過程で南方と人文研の微妙な接点がちらほらと目についた。以下、桑原武夫、貝塚茂樹、岩村忍、上山春平の4名について、その消息を簡単にまとめたい。あらかじめ述べておくと、彼らと南方に直接の面識はない。にもかかわらずつながってしまう四者四様の接点から、新京都学派のあり方をくみ取っていただければ幸いである。
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まず、桑原武夫の場合。中学時代、病床で読んだ雑誌『太陽』連載の「十二支考」により南方に親しんだという桑原は、『文芸春秋』1952年12月号に「南方熊楠の学風」を寄稿している*2。この年、ミナカタ・ソサエティによる乾元社全集(1951-52、全12巻)が完結しており、これを受けての執筆と推測される。わずか10ページの短い文章ながら、欧米留学、孫文との出会い、神社合祀問題、御進講と、南方の人生を彩る重要なトピックが網羅されており、さすがは「ポルトレ(人物描写)」の名手といったところだ*3。南方論のアンソロジーである飯倉照平編『南方熊楠 人と思想』(1974平凡社)の巻頭に桑原が置かれているのも順当といえよう。
「日本人は誰しも、南方の本をよむとき、そこに必らず何らか自分の生活なり思想につらなるところのものを見出し、それについての解答ないし教えをうけるの喜びを見出すにちがいない」*4。桑原はそのように南方学の効用を説く。例えば、「カワヤの中でツバをはかない」というのは、「怪力乱神を語らず」という父・隲蔵の教育方針にもかかわらず桑原が郷里越前の祖母から教え込まれた迷信の一つだが、南方の著作集をひもとくと、それが越前のみならず、日本各地、はては遠くインドまでつらなる風習であることが示されている。このように、ささやかな事象について古今東西の資料を博捜し、その来歴を解き明かしていくダイナミズムが南方学の醍醐味であり、その「博識」を桑原は高く評価する。
同時に、そこに潜む限界の指摘も忘れていない。南方には「理論」がないという点である。「南方が個々の問題で手がたい仕事をつみ重ねつつも、全体として目立った理論体系を示さずに終ったのは、日本全体の学問的年齢がまだ若かったための不可避的制約があったと考えられる」と桑原は述べている*5。
また、「民間の学問が健全に成長し、そこからの批判のないところでは、アカデミーの学問は必ず独善化する」という指摘とともになされる日本民俗学の分析も興味深い*6。
大学の講座のなかった、そして今もほとんどない民俗学はもっぱら民間学者の努力と精進によって日本に樹立され、しかも日本の人文科学において世界的に独創性をもつ少数の学科の一つとなったのである。国家権力のみいたずらに強大で、民間の資本も組織も弱い日本で、一科の学を成長させるということが、いかに偉大な仕事であったかということは、幾度くりかえしても十分ではない。その偉業は柳田国男氏を中心とする人々によってなされたのだが、南方がそれに先立って、ヨーロッパの民俗学をはじめて極東ないし日本の文献または事象に適用し、日本民俗学の先駆をなした功績は高く評価しなければならない *7。
日本の民俗学に対する好意的かつ的確な評価かと思われるが、興味深いのは、ちょうどこの頃、桑原らが人文研に民俗学の講座を設けようと試みていたことである*8。引用した一節には、単に南方や民俗学への評価のみならず、戦後の桑原が取り組む民主的な学問の再建、人文科学の再創造という問題意識が反映されているといって良いのだろう。
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南方を同郷の先達としてリスペクトするのは貝塚茂樹(1904-87)である。貝塚の父・小川琢治(1870-1941)が南方と同じく和歌山県出身であるためだ*9。1867年和歌山市生まれの南方と1870年田辺市生まれの小川は、ほぼ同世代といってよい。小川の生家・浅井家は藩儒の家柄であり、実父・篤は和歌山中学で漢文の教師を勤め、そこには南方が在籍していた*10。その後、南方は東京の大学予備門(後の一高)を中退、1886年より足かけ15年間、アメリカ、キューバ、イギリスと渡り歩いて1900年に帰国、紀伊田辺に居を定めることとなるのだが、小川の足取りもしばしばこれに重なっている。
小川家の養子となった琢治は、和歌山中学から一高、東大理学部地質学科に進み、農商務省地質調査所に入所、1900年のパリ万博に際しては、「明治三十一年に初めて完成した日本の百万分の一の地質図に、日本群島の地質構造論の新見解をもとに自ら起草した英文の説明書をたずさえて、意気揚揚として渡航」*11。博覧会終了後、ロンドンにも立ち寄るが、一足違いで南方が帰国した後だったらしい。ちなみに、小川は1941年11月15日没、南方は同年12月29日没、どこまでもニアミス続きの二人である。
結局、南方と小川に面識があったか否かは不明だが、小川は南方に関心を抱き続けたと貝塚はいう。
父はいつも『太陽』のこの論文[「十二支考」]を読みながら、引用の説話はも少し削れるではないか、何しろ長すぎて論旨がさっぱり判らぬではないかと、ぶつぶつぼやいていた。今にして思うと、この非難は、じつは非難ではない。同郷の先輩で無類の知識をもった偉大な学者の、常識を逸脱した自在の論法に、も少し秩序が立っていたら、学界で十分に通用し、その学力がすぐ正当に評価されるにちがいないのにと、地団太ふんでくやしがっていたのだ *12。
こうした家庭環境で貝塚が「南方先生のあやしい魅力の囚」となったのも当然といえよう*13。
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南方研究の上で最も参照される人文研歴代所員は岩村忍(1905-88)だろう。岩村が参照されるというのは、乾元社全集ならびに平凡社全集(1971-75)の編集に関わっているためであり、とりわけ平凡社全集では監修者の一人として第1巻に「南方熊楠全集の刊行にあたって」(1971)を執筆、また、乾元社全集未収録の英文著作をまとめた第10巻には「南方熊楠の英文著作」「英文『燕石考』について」(1974)を寄せている。
ところで、岩村の専門はモンゴル経済史であり、普通に考えると南方全集の監修を務めているのは不思議にも思える。ここで彼の経歴を確認しておくと*14、岩村は1905年北海道小樽市に生まれ、旧制小樽中学卒業後、オタワ大学、トロント大学大学院で歴史学、経済学、社会学などを学ぶ。その後、新聞連合社に入り、リットン調査団に記者として随行。外務省嘱託、内閣情報局事務嘱託などを経て、1943年に設立された民族研究所の所員となる。戦後、同研究所が廃止されると、参議院常任委員会専門委員を経て、1950年、京都大学人文科学研究所教授に着任。その後も、アフガニスタン調査(1954)、京都大学カラコラム・ヒンズークシ学術調査団(1955)、京都大学東南アジア研究センター初代所長(1965、人文研教授と兼任)、日本モンゴル学会初代会長(1970)とさまざまな活躍を見せる。
「南方熊楠全集の刊行にあたって」において岩村は、「わたくし自身が三十年以上もまえにふと読んだ南方の文章にひかれて、その後かれの文章を読みあさり、乾元社版「南方熊楠全集」の出版にも多少の関係をもつことになった」「こんどの平凡社版の出版にあたって編集上の協力依頼を受けた時に、わたくしが喜んでこれに応じたのは、旧版の編集委員会に名をつらねながら、ほとんど何もできなかったことに対する償いの気持があったからである」と述べている*15。
この言葉と当時の状況からすると、岩村が乾元社全集の編集に加わったのは、ミナカタ・ソサエティが渋沢敬三を中心に結成された際、そこに岡正雄をはじめとする民族研究所以来の民族学者人脈が関与したためと推測される。さらにいえば、英語圏で鍛えられた岩村の抜きんでた英語力が彼にこうした役回りをもたらしたといえるだろう。
乾元社『南方熊楠全集月報』第3巻(1951)に岩村は「驚いた事」を寄せている。全集第1巻に修められた『十二支考』の馬の記述にマルコ・ポーロが引用されていることに関して、その引用が一般に普及していたユール版のみならず、貴重な逸文を含みながらもその史料的価値が知られていなかったラムジオ版にまで及んでいることに驚き次のように述べている。
こゝで私は、一事を調べるにも徹底しないでは已まぬ先生の精神をまざまざと見せつけられる気がした。イージー・ゴーイングな日本人の中に南方先生のような人が出られたことは「展望」の七月号で柳田国男氏が指摘されているように「日本民族の可能性、つまりポシビリティ」を実現して示してくれたと言う意味で、我々後進に対してこの上ない鼓舞激励を与えるものであるに違いない。南方先生がヨーロッパに生まれられたら、恐らくディドロやスペンサーのような人になつていたろうと思う。私は南方先生を容れ得なかつた日本の社会に憤りを感じ、そしてお気の毒でならないのである *16。
岩村の南方理解は、19世紀西欧の学問世界を踏まえた的確なものであり、それゆえに日本の学界と軋轢を起こさずにはいられなかった南方への同情ある評価となっている。それは同時に、英語圏の学問世界に学び、日本の学界に違和感を覚えずにはいられなかった岩村自身の感慨をも含み込んでいるのだろう。
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白浜にある南方熊楠記念館の名誉館長を務めた上山春平(1921-2012)の南方体験もユニークだ。正確にいえば、空海を介した南方への接近である。
「私が空海とめぐり会ったのは二十代のはじめであり、それは宗門の子弟としてでも、仏教学の学徒としてでもなく、人生の道を見失って自殺にまで追いこまれた青年としてであった」*17。その消息は『空海』(1981)に詳しく、是非ともそちらを読んでいただきたいのだが、ごく簡単に確認しておくと、1921年、台湾で生まれた上山は、旧制台北高校在学中、「哲学の世界に迷い込んでウロウロしているうちに、学問と人生の問題が複雑にからみあって身動きがとれなくなり、ノイローゼに近い状態がつづくうちに、ふと自殺の道をえらんでしまった」*18。そして二度の自殺未遂の後、改めて哲学を自らの道と定めた上山は、京都帝国大学に進学。その後も「苦渋に満ちた精神的禁欲」は続いたが、その頃、「たまたま選んだ下宿が、如意ヶ岳(大文字山)のふもとにあったおかげ」で、「山のお堂にまつられているお大師さんを信仰しているお年寄りのグループ」に加わるようになり、真言密教の世界に急接近する*19。そして、若き空海が没頭した「虚空蔵求聞持法」を自らも修めたいという思いを抱いたところ、たまたま下宿の主人により東寺の学僧を紹介され、秘法を面受されるという幸運に恵まれたというのだ*20。この学僧の名を長谷宝秀(1868-1948)という。
こうした空海との出会いに導かれ、上山は南方と出会うことになる*21。南方が長文かつ大量の書簡を残したことはよく知られており、民俗学では柳田国男、男色では岩田準一というように、主題ごとに特定の相手と議論を深める傾向にあったが、仏教に関しては土宜法龍(1854-1923)が一番の相手だった。後に高野山の管長を務めるこの高僧に対し、南方は1893年11月下旬と推定される書簡で、「モニエル・ウィルヤムス氏」の『仏教講論』を贈りたい、土宜はこのとき旅の途中なので、日本の「慥かな人」に宛てて送りたい、と伝えている*22。これに対して土宜が指名した人物こそ長谷宝秀、上山にとって「私の人生の大きな節目にあらわれて、絶望の淵から這いあがる手助けをしてくれた恩人」*23、すなわち、上山に「虚空蔵求聞持法」を授けた学僧である。こうして、恩人長谷を介して自身と同様に真言密教に傾倒した南方の存在がクローズアップされたのだ。
話を『仏教講論』に戻すと、上山は次のように述べている。
『仏教講論』は“Buddhism, in its connexion with Brāhumanism and Hindūism, and in its contrast with Christianity.”となっている。この本のテーマは仏教なのだが、それを、一方においてはバラモン教やヒンズー教との関連においてとらえ、他方においてはキリスト教との対比においてとらえよう、というわけである。南方は、新世代の「秀才英俊」が、仏教をこのような広い視野からとらえなおしながら、真言密教の高遠な哲理を欧米の人びとに説き示すことを願っていたように見える *24。
南方が土宜にこの本を贈ろうとしたのは、仏教の優れた特質を仏教徒の内側にとどめるのではなく、グローバルな近代的学問の水準から検証し、発信することが大切だ、そしてそれを担い得る「新世代」が必要だと考えたからだろう。そう上山は理解した。それは真言密教に可能性を感じた上山自身のヴィジョンでもあるのだろう。
* *
ところで、仏教のグローバルな再検討という課題は、その後どのように取り組まれたのか。私は詳らかにしえないが、ひとつ、現在の京大人文研の取り組みを紹介して本稿を終わりたい。
2014年12月、国際ワークショップ“Asian Buddhism: Plural Colonialisms and Plural Modernities”が開催された*25。その主催団体の一つとなったのが京大人文研共同研究「日本宗教史像の再構築」(2014-2017)である*26。既存の日本宗教史叙述にみられる「一国史」や「一宗派史」といったバイアスを可視化し、より立体的で風通しの良い宗教研究を目標とする同プロジェクトは、巨大な研究対象に身じろぎつつも、その再検討を多角的かつ果敢に推し進めつつある。その詳細に触れる余裕はないが、上記の国際ワークショップに世界各国の研究者が集い、「近代仏教」という現象を国際的で多元的なネットワークから解き明かす議論の数々は、「京都」という街が「仏教」と切り結びつつ放つポテンシャルを改めて確認する貴重な機会となった。
南方/上山が夢想した「新世代」の仏教研究とはこういうことだったのかもしれない。ひょっとすると。
付記:本稿作成にあたって、興味深い資料を確認したので報告しておこう。1911年、南方が神社合祀反対運動を進める際、東京帝大教授・松村任三に宛てて二通の書簡(『南方二書』)を書き、これを柳田国男が印刷して官僚や識者に配布したことは良く知られている。この『南方二書』については、飯倉照平「『南方二書』関係書簡」(1999『熊楠研究』1)、芳賀直哉「『南方二書』と熊楠」(2002『熊楠研究』4)などによって40名あまりの配布先が知られているが、今回、京都大学所蔵資料を調べたところ、新たに河上肇にも配布されたことが確認された。京都大学経済学部図書室の河上文庫に収められた同書の表紙裏には「明治四十四年十月初四 柳田国男君 恵贈」との書込があり、柳田から直接送付されたものであることがうかがえる。前回の連載で取り上げた初版本『遠野物語』とともに、柳田と河上の交流を伝える貴重な資料だろう。
(次回2015年7月に掲載予定です。ご期待ください。)
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*1 |
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菊地暁2015「柳田民俗学と南方民俗学」(『kotoba』19)および同2015「書評:飯倉照平編『南方熊楠英文論考[ノーツ・アンドクエリーズ誌篇]』」(『熊楠研究』9)のこと。 |
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*2 |
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以下、同編については『桑原武夫集』3(1980岩波書店)より引用する。 |
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*3 |
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連載第6回参照。 |
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*4 |
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注2 p.452
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*5 |
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同前p.462 |
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*6 |
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同前p.464 |
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*7 |
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同前 |
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*8 |
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桑原武夫1988『日本文化の活性化』岩波書店、pp.11-13 |
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*9 |
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以下、貝塚茂樹1971「郷土の先覚―亡父小川琢治との関係―」(『南方熊楠全集月報』1)による。
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*10 |
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飯倉照平2005『南方熊楠』ミネルヴァ書房、p.20 |
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*11 |
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注9 p.2 |
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*12 |
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同前p.3 |
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*13 |
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同前 |
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*14 |
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岩村忍1980「遊牧社会に魅せられて」(日本リクルートセンター出版部編・発行『講義のあとで』)による。 |
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*15 |
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岩村忍1971「南方熊楠全集の刊行にあたって」『南方熊楠全集』1 、平凡社、pp.B-D |
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*16 |
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ノンブルなし。なお、ここで言及されているのは柳田国男1951「南方熊楠先生−その生き方と生まれつき」(『展望』67)のことである。 |
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*17 |
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上山春平1995『上山春平著作集8 最澄と空海』法蔵館、p.503 |
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*18 |
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同前p.100 |
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*19 |
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同前p.103 |
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*20 |
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なお、この下宿の主人とは京都帝国大学附属図書館初代館長・島文次郎(1871-1945)であり、島と上山の出会いも大変興味深いものだがここでは割愛する。 |
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*21 |
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以下、上山春平1997「南方熊楠と空海」(『文学』8/1)による。 |
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*22 |
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同前p.96 |
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*23 |
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同前p.97 |
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*24 |
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同前p.100 |
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*25 |
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http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/religious_histories/archives/86/ |
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*26 |
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http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/religious_histories/ |
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