第20回 「風雲? 北白川城! ―付:ふたたび休載にあたって」 を公開!
人文研探検―新京都学派の履歴書(プロフィール)―| 菊地 暁(KIKUCHI Akira)
   
 
   
 
   
 

「人文研探検―新京都学派の履歴書(プロフィール)―」
第9回

『世界文化』と人文研
―あるいは、治安維持法の悲喜劇―


 

歴史に於ける一つの歴史的な時代として此の時代を特徴づけるのは、確かに当つてゐる。これまでの時代の何とか解釈のつけ得られた、あり来りのテムポが、破られて、乱れて、所謂『非常時』―危機―なのである。ふとふりかへつて見て、自分の立つてゐる舞台に気がついた時、ひたすら今まで努めてゐた自分の努力が、これでいゝのか、それともいけないのか、疑はれて来る。時代のテムポがすつかり変つてゐて、自分がそれについて行けるか、行けないか、に迷ふ。不安。今までのものが無意味に見える。ニヒリズム。正に此の様な不安とニヒリズムとに、此の時代のインテリゲンツィアの敏感な部分が今、立つてゐる。学問文化への不信頼と絶望。だが、まじめな頭と胸とは、到底此の様な不安と絶望には堪へられない。新しい、しつかりした、もう再びは背かれることを知らない文化の、大通りを探し求めざるを得ない。その様な世界文化の大通りこそは、たゞまじめに努力する人々にのみ踏まれるであらう。努力すると云ふことは、動いてゐると云ふことだからである。だから、この雑誌も、出来上つた、一定の場処に落ついてゐる人々のものではなくて、たえず、本当のもの、正しいものを求めつゝ、動いてゐる人々の友である。真理の扉を、たゝくことを忘れないでゐる真摯な手によつてのみ、この雑誌は育てられるであろう。

 

 冒頭から長い引用になってしまった。雑誌『世界文化』創刊号(1935年2月刊)巻頭に掲載された創刊の辞である。タイトルも筆者もない文章だが、同誌復刻版に収録された座談会によると、哲学者・真下信一が雑誌同人の「みなの気持を要約しながら」書いたものだという*1。「世界文化」という誌名も、「戦争」が足音を立てて近づき「日本」への自尊が増長する時勢に抗し、「文化」そして「世界」への意志を高らかに謳ったものだ。以後、第34号(1937年10月刊)を最後に、同人の検挙により終刊するまで、『世界文化』はリベラル知識人の良心の砦として光彩を放つこととなる。

 

 さて、「世界文化に関する人文科学の総合研究」を設置目的に掲げる京大人文研が、この『世界文化』といかなる関係にあるかというと、必ずしも組織的な連関があるわけではない。1939年に京都帝国大学に付置された(旧)人文科学研究所が掲げた設置目的「国家ニ須要ナル東亜ニ関スル人文科学ノ総合研究」を、戦後の時流に合わせて便宜的に改変したというのが実態だ。とはいえ、『世界文化』と無関係かというとそうでもない。人文研の前身機関である、東方文化研究所、西洋文化研究所(1945年、独逸文化研究所から改称)、(旧)人文研には、それぞれ、長廣敏雄(考古学)、和田洋一(ドイツ文学)、真下信一など、『世界文化』同人が所属していたからだ。

 

 そしてそれ以上に、1933年の滝川事件から『世界文化』終刊へと至る一連の流れは、同誌同人のみならず、戦後の新京都学派を牽引していくこととなる若き学徒たちにとって、強烈な「原体験」としての意味を持つもののように思われる。今回は、水野清一論から「半歩」迂回して『世界文化』をめぐる問題を考えてみたい。

 

 まず、松尾尊~『滝川事件』(岩波現代文庫2005)など先学の研究に依りつつ、事件の推移を確認しておこう*2

 

 事の発端は、法学部教授・滝川幸辰教授による講演が無政府主義的ではないかという当局の嫌疑である。学部長の釈明によりいったんは事なきを得たものの、1933年3月、共産党員およびその同調者とされた裁判官・裁判所職員が検挙される「司法赤化事件」が起こったことにより状況は一変、司法試験委員だった滝川に対する右翼の攻撃が激化。4月には滝川の著書が発禁となり、5月には鳩山一郎文相が小西重直京大総長に対し滝川の罷免を要求、総長はこれを拒絶するも、同月26日、文部省は文官分限令により滝川の休職を強行した。これを大学自治への由々しき暴挙とした法学部は教授から副手に至る全教官が辞表を提出、抗議の意志を表明する。だが、大学当局および他学部はこれに同調せず法学部は孤立、小西総長は辞職に追い込まれ、後任の松井元興総長の就任により辞退は終息に向かうこととなった。以上が、大学と学問の自由に深刻な波紋を投げかけた「滝川事件」の概要である。

 

 こうした展開に学生たちの間では法学部支持の動きが高まった。文学部では、法学部教官からの支援要請に哲学科の大学院生だった中井正一、真下信一、久野収らが賛同、院生の数が最も多かった史学科でも、中井の連絡を受けて井上智勇(西洋史)らがこれに同調、史学科院生大会を開催し法学部支持を決議した。

 

 これに対して多くの教官は静観・傍観を決め込むこととなる。学生たちが教官に協力を仰ぐと、学生たちを激励したのは小島祐馬(中国哲学、後に(旧)人文研の初代所長)のみ、田辺元(哲学)は同情するも逃げ腰で何もせず、濱田耕作(考古学)は学生たちに「そんなことをしても、あかんぞ」との一言*3、当時京都帝国大新聞部の部長を務めた西田直二郎(国史)に至っては事件の報道を禁止したほどだった*4。法学部の孤立、大学側の敗北も当然の帰結といえるだろう。

 

 そうしたなか、これを諾しとしない学生たちが抵抗の場を言論活動に移すこととなる。中井正一ら哲学科の院生が発行していた雑誌『美・批評』(1930-33年)の復刊(1934年)、そしてその発展的解消ともいうべき『世界文化』の創刊である*5。真下は次のように述べている。

 

結局、滝川事件でぼくたち渦中に入って、ひとごとならず動いたんだが、強引な弾圧で敗北したわけです。しかし、学問、思想の自由そのものが敗北してはいけないというところから、事件としてはやぶれたけれども、思想としてはなんとか残りたいという希望が強くあったわけで、それが結局『美・批評』再刊につながったんだろうと、ぼくなんかは自然に理解できます。京大文学部における滝川事件の精神の継承のような運動として、主観的にはそのスタートは理解できるんです(座談会p. 19)。

 

 以上の経緯により、 『世界文化』は創刊される(1935年2月)。哲学の中井正一、真下信一、久野収、冨岡益五郎、フランス文学の新村猛、森本文雄、ドイツ文学の和田洋一、臼井竹次郎、ロシア文学の熊沢復六、映画演劇評論の辻部政太郎、考古学の禰津正志(ねずまさし)、理論物理学の武谷三男などが同人となり、他にも評論家の能勢克男、清水光、日本史家の清水三男などが寄稿した。辻部によると、学問の体制化に抗し「ほんとうのアカデミズム」を再構築すること、および、「反ファシズム、反戦」の「二面作戦」が同誌の眼目だったという(座談会p. 21)。複雑化する社会における合意形成のメカニズムとそのメディア的基盤を論じた中井正一の名編「委員会の論理」(13-15号、1936年1月−3月)もここから生まれた。そして、最もユニークなのが「世界文化情報」欄で、欧米のみならずソ連、中国などの文化事情を紹介、とりわけ、ナチス政権に追われたドイツ作家の消息やフランスにおける反ファシズム運動「人民戦線(フロン・ポピュレール)」の動向をフォローし、海外事情に餓えたリベラル知識人の濶をいやすこととなる。

 

 さて、東方文化学院京都研究所の研究員だった長廣敏雄は、考古学を研究する一方、美学・音楽にも造詣が深く、『世界文化』および前身の『美・批評』には主に西欧音楽事情について寄稿していた*6。『世界文化』のものを列挙すると以下の通りである。

 

 2号(1935.3)「クルト・ワイルの「諾いふ人(ヤー・ザーガー)」と能楽「谷行」」
 3号(1935.4)「大戦以後の音楽作品二、三」
 8号(1935.9)「ヒンデミツト事件」(筆名・須東)
 9・10合併号(1935.10)「現代フランス音楽」
 19号(1936.7)「二十五年忌を迎へたグスターフ・マーラー」
 20号(1936.8)「リストの五十年忌」
         「ヒンデミット作「画家マチス」」
 22号(1936.10)「ナチスドイツ音楽の方向」(筆名・須東)    
 24号(1936.12)「ダリユス・ミロオの音楽―フランス音楽の限界性」
 25号(1937.1)「ストラヴインスキー自伝を読む」
         「レコード評 ムツソルグスキー「第一歌曲集」」(筆名・須東一)
 26号(1937.2)「クルト・ワイルと音楽劇場」

 

 このほか、鄭君里「中国電影(映画)発達史」(27-28号)、李樹化「中国の現代音楽」(32号)などの翻訳を寄せている(どちらも筆名・須東一)。これらを眺めると、いずれも至極まっとうな音楽評で、とりたてて党派的な部分を見いだすのは難しい。強いていえば、ナチス政権による音楽家への弾圧に言及した「ヒンデミツト事件」「ナチスドイツ音楽の方向」が音楽愛好者として反ナチズムの議論を展開しており、この二編が「須東」名義であることには相応の理由がありそうだが、それらとて、議論はあくまで音楽をめぐる問題に終始し、政治体制そのものを云々するものではない(音楽政策の適否は言及されている)。総じて、特に当局を刺激するものとは思われず、長廣自身、「ある意味でまったく無自覚であり無警戒であった」と回想している*7。これは長廣に限ったことではない。同人の多くは、時勢に批判的ではあれ、『世界文化』はあくまで学問と批評の場であり、自分たちの活動は「合法的」であると確信していたのだ。

 

 にもかかわらず、検挙は決行された。1937年11月、新村猛、真下信一、中井正一、久野収、禰津正志の5名の検挙を皮切りに、同人が次々と警察の手に落ちていったのだ。不条理な拘留の様子は和田洋一『灰色のユーモア―私の昭和史ノォト―』(理論社1958)およびその増補版『私の昭和史―『世界文化』のころ―』(小学館1976)に詳しいのでここでは割愛する。出所後、真下は(旧)人文研の嘱託となり、「国家ニ須要ナル東亜ニ関スル人文科学ノ総合研究」に「アホらしうて」とボヤきながら雑務をこなし*8、和田も新聞記者などを転々とした末に独逸文化研究所に就職、そこでナチスドイツと日本の敗戦を迎えることとなる。

 

 話を長廣に戻すと、どういうわけか長廣は検挙の魔の手を免れた。彼自身は、自分の執筆内容が音楽であったため、また、本職が考古学であるため、警察にも大目に見られたのではないかと推測している。一方、和田は、『世界文化』同人の検挙の途中で「共産主義者団」事件が始まり、こちらに警察が忙殺されたため沙汰止みとなったと推測している。後者のほうが蓋然性が高そうに思えるが、真相は未詳のまま。

 

 しかし、検挙を逃れたことから長廣の苦闘が始まる。警察のブラックリストに名前が載ってしまったのだ。この頃、同僚の考古学者・水野清一とともに中国石窟寺院研究に着手していた長廣は、日本軍の占領地となった雲岡石窟での調査を計画、下鴨警察署に渡航許可証を申請した。ところが、どういうわけか長廣のみ許可証が発行されない。なぜ発行されないのかもノーコメント。ことの報告を受けて激怒した松本文三郎所長が自ら下鴨署に尋ねてもやはりノーコメント。所長の怒りの矛先は長廣にも向かい、このまま渡航できないようなら研究所も首にせざるをえない、二年の猶予を与えるからこれまでの研究をまとめろ、との最後通告が与えられた。長廣は失意のうちに「古代支那工芸史に於ける帯鉤の研究」をまとめることになる(1943年、桑名文星堂より刊行)。

 

 救いの手は意外なところから現れた。京大音楽部の大先輩である医師が長廣の窮状に同情、旧知の元・岐阜県警部長にして京大事務官である人物に助力を依頼したことから解決の糸口が見え始めたのだ。しかしそこにも、まだ一悶着あった。件の人物は、「京都府警も大体、分かってくれています。一度、府警特高課へ出頭して下さい。但しですよ。どんなことを言われても、はい、と頭を下げてください」と注意を与えた*9。長廣はこれを肝に銘じ、特高課に出頭する。


特高は案外テイネイであったが、彼の第一問は「あんたはプロレタリア音楽の宣伝をやっとるね」ときた。私は唖然とした。不意を突かれたので、とっさにこういってしまった。「プロレタリア音楽ってどんな音楽ですか?」私は事実知らなかった。/特高氏は一瞬、ぐっと私を睨んだ。「あんたこそ知っとるんじゃろ、やっとるんじゃから」。/それから小一時間、押し問答が続いた*10。

 

 「プロレタリア音楽」。この長廣自身夢にも思わなかった「罪状」により、長廣は渡航を阻まれていたのだ。そして、それが何を意味するのか想像もつかない「プロレタリア音楽」への「関与」を長廣自らが「自供」するという茶番によって、長廣はようやく放免され、晴れて渡航許可が下りた。以後、1939年より44年まで毎年、長廣は雲岡での過酷な調査に勤しむこととなる。その際、水野が渉外折衝、長廣が現場監督という役割分担がなされたが、これは水野のねばり強い交渉力のためであると同時に、長廣のこうした経歴が軍や警察との折衝を困難にさせたためでもあったという。

 

 そして、こうした「茶番」の経験は他の同人も同様だった。日本初の帝王切開で生まれた中井正一は、「帝王切開」とは天皇制打倒だとこじつけられ、同志社前の喫茶店エルムに通った真下信一は、「EはエンゲルスでLはレーニン、Mはマルクスではないか」とこじつけられ、さらには、祇園のフルーツパーラーでの談話会「いちじくの会」は、「いちじくは外は白いけれど中は赤い」から左翼団体だとこじつけられたという(座談会p. 44)。単なる冗談としか思われないこうした嫌疑により、多くの学徒が拘留されていった。ひとたび起動した治安維持法というシステムは、もはやそれが何を取り締まっているのか分からないまま、警察機構というマッチポンプによって「違反者」を際限なく量産していったのだ。

 

 こうした「茶番」は過去のものだと思っていた、いや、思いたかった。しかし、どうやら紛れもなく現在の問題であることが、2013年12月、明らかとなった。特定秘密保護法の制定そして公布である。この法律の数多の制度的欠陥と異様なまでの制定過程の拙速さについては、ここで改めて述べるまでもないだろう。何が罪なのか事前に公開されていないという、近代的な罪刑法定主義に反する同法が、今後いかなる災厄をもたらすか、まったく予断を許さない。それは、人と人との信頼関係に亀裂を生み、人の知性と想像力に足枷をかけ、治安維持法に勝るとも劣らない「茶番」を量産していくこととなるだろう。

 

 杞憂だろうか。そうであって欲しい。そうであることを私は切に願っている。

 

 




   
*1   新村猛・真下信一・和田洋一・辻部政太郎・冨岡増五郎・平林一1975「座談会:『世界文化』のころ」復刻版『世界文化』(小学館)第3巻、p. 24。以下、同座談会からの引用は(座談会 頁数)で示す。
   
*2   松尾尊兊2005『滝川事件』岩波現代文庫。本書には、瀧川事件をめぐる桑原武夫の回想を松尾が聞き書きした「ある日の桑原武夫先生」が収録されており、非常に興味深い。
   
*3   井上智勇2005(初出1970)「思い出の一、二」京都大学文学部編『以文会友―京都大学文学部今昔―』京都大学学術出版会、p. 129
   
*4   藤谷俊雄「進歩の敵「文化史観」―西田直二郎博士の公罪―」1946年5月21日付『京都帝国大学新聞』
   
*5   社会科学者、自然科学者にまで寄稿者が広がり、『美・批評』というタイトルでは落ち着きが悪くなったためだという。
   
*6   長廣については、長廣自身の著作のほか、藤井祐介2007「統治の技法―文化建設とは何か?―」(池田浩士編『大東亜共栄圏の文化建設』人文書院)を参照した。
   
*7   長廣敏雄1986「わが回想の記―東洋と西洋と―」『橘女子大学研究紀要』13、p. 234。
   
*8   和田洋一1976『私の昭和史―『世界文化』のころ―』小学館、p. 196。
   
*9   長廣敏雄1988『雲岡日記―大戦中の仏教石窟調査―』日本放送出版協会、p. 34。
   
*10   同上。
   
   
   
 

 

 
     
 
本書の詳細
   
   
 

 桑原武夫、貝塚茂樹、今西錦司、梅棹忠夫ら、独自の作法で戦後の論壇・アカデミズムに異彩を放った研究者たち。新京都学派と呼ばれた彼らの拠点こそ、京都大学人文科学研究所(人文研)でした。気鋭の民俗学者が人文研の歴史に深く分け入り、京都盆地の、そしてそこから世界に広がる知のエコロジーを読み解きます。
 伝説的な雑誌『10+1』INAX出版)誌上で始められ、その休刊とともに中断していた連載を、ここに再開します。屈曲蛇行する探検の道のりに、どうぞお付き合いください。

   
 
   
著者・訳者略歴
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菊地 暁
(KIKUCHI Akira)

京都大学人文科学研究所助教、文学博士。民俗学専攻。
〔著書〕 2001『柳田国男と民俗学の近代―奥能登のアエノコトの二十世紀―』吉川弘文館、2005(編)『身体論のすすめ』丸善。
〔論文〕2012「〈ことばの聖〉二人―新村出と柳田国男―」(横山俊夫編『ことばの力―あらたな文明を求めて―』京都大学学術出版会)、 2010「智城の事情―近代日本仏教と植民地朝鮮人類学―」 (坂野徹・愼蒼健編『帝国の視角/死角 〈昭和期〉日本の知とメディア』青弓社)、2008「京大国史の「民俗学」時代―西田直二郎、その〈文化史学〉の魅力と無力―」(丸山宏・伊従勉・高木博志編『近代京都研究』思文閣出版)、2004「距離感―民俗写真家・芳賀日出男の軌跡と方法―」(『人文学報』91)など(詳しくは、ここを参照)。

参考情報:「INAX出版」ウェブサイトはこちら

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