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人文研探検―新京都学派の履歴書(プロフィール)―| 菊地 暁(KIKUCHI Akira)
   
 
   
 
   
 

「人文研探検―新京都学派の履歴書(プロフィール)―」
第3回

桑原武夫の何がそんなに偉いのか?
―「歴史家・桑原武夫」を考える―


 さて、いきなりぶしつけな物言いから始めてみるが、いったい、桑原武夫の何がそんなに偉いのか*1。京大人文研のお家芸「共同研究」の立役者であったことはもちろん、生涯にわたってクリティカルな論説を発表し続けた言論界の寵児であり、また、国語審議会委員、日本学術会議会員、日本芸術院会員など数々の要職を担う学界の重鎮でもあった。全くもって立派な活躍だが、その桑原が、現在、どのように評価されているのかというと、寡聞にしてほとんど消息を聞かないのだ*2

 

 試みに、国会図書館の雑誌記事検索にかけてみても、「桑原武夫」を主題的に論じた著作はほとんどなく、「桑原武夫学芸賞」関連記事ばかりが目につく。ネット検索で引っかかるのも、もっぱら「第二芸術」論がらみのものだ。梅棹忠夫・司馬遼太郎編『桑原武夫伝習録』(1981潮出版社)など、回想文集の類は少なくなく、かつ、そのなかで重要な知見や議論が提示されていることもままあるのだが*3、そうした桑原と親交のあった論者を越えて考察がなされることは、――「第二芸術」論を除くと――実はきわめて稀である*4

 

 この評価の不在はいかなる理由によるものか。

 

 一つは、桑原がいわゆる「専門的著作」をあまり残さなかったこと。彼には『桑原武夫全集』(1968-72朝日新聞社、全7巻+補巻1)および『桑原武夫集』(1980-81岩波書店、全10巻)にまとめられる膨大な著作があるが、そのほとんどが短編であり、また、注記の充実したいわゆる「学術論文」スタイルの文章も数えるほどしかない。『事実と創作』(1943創元社/1978講談社学術文庫)、『第二芸術』(1976講談社学術文庫)など、現在でも比較的入手し易い著作はいずれも短編をまとめた評論集だ*5。参照文献を厳選し、自らの観察と論理を濃縮して展開させる桑原の文体は、確かにきわめて魅力的なスタイルであり、無闇矢鱈と文献を列挙しがちな日本の学術論文に対する批判を含んでいるようにも思われるが、結果として論文での引用になじまなかったという可能性は、少なからずありそうだ。

 

 加えて、海外渡航が日常化し、ネットで原典に容易にアクセスできる今日の研究環境が、限定された文献と現地体験に立脚した当時の研究を過去のものとした点も見逃せない*6。桑原編の『ルソー研究』(1951岩波書店)、『フランス百科全書の研究』(1954岩波書店)、『フランス革命の研究』(1959岩波書店)といった一連の共同研究は、枕詞のように言及されこそすれ、その具体的な論点が先行研究として取り上げられることは、実はほとんどないのだ。

 

 何やら桑原を貶めんとする文章のようになってしまったが、そうではない。桑原は同時代的活躍に比して後代の検証が極端に少ないこと、そこには、戦後日本における学術や批評の構造的な変化がなにがしか関与していること、そしてその断絶を乗り越えるためには、おそらく「桑原武夫」をめぐる先入観を一旦括弧に括る必要があることを確認したかったのだ。

 

 そこで、いくつかの「逆説」を提案してみよう。桑原は:

  1.「文学者」というより「歴史家」である。
  2.「デスクワーカー」というより「フィールドワーカー」である。
  3.「高級芸術」よりも「大衆文化」に関心がある。
  4.「フランス」よりも「日本」「中国」が本領である。

これらの「逆説」を検討し、改めて、桑原にとって「フランス文学研究者」であることの意味を問い直そうというのが筆者の戦略だ。

 

 まず手始めに、「歴史家・桑原武夫」について考えてみたい。

 

 桑原武夫が自ら「歴史家」を名乗ったことはなく、歴史学を専門的に学んだこともなく、歴史的実証といいうる論文を書いたことも勿論ない。にもかかわらず、その思考は優れて歴史的であり、作品の至るところにその片鱗をのぞかせている。じっさい、桑原自身、自らの歴史好きを隠すところがない。そして、彼の周辺には、いつも第一級の歴史家がいた。父・隲蔵の存在はいわずもがな、その同僚・内藤湖南、小川琢治、原勝郎といった錚々たる歴史家たちの存在が、桑原の史癖を育む重要な要因だったことは間違いない。

 

 ここで煩を厭わず確認しておくと、京都帝国大学の創立が1897年、文科大学(後の文学部)の設置が1906年、史学科の設置が1907年、桑原隲蔵の東洋史教授着任が1908年となる*7。設立経緯からして東大の対抗馬たることを運命づけられた京大にあって、史学科もその意気込みは並々ならぬものがあった。それは、本邦初の三講座(東洋史、地理学、考古学)の設置、小学校卒の経歴しか持たない内藤湖南の大抜擢などに端的に現れている。内田銀蔵、三浦周行(国史)、内藤湖南、桑原隲蔵、矢野仁一(東洋史)、原勝郎、坂口昴(西洋史)、小川琢治(地理学)、濱田耕作(考古学)といったユニークで優秀な陣容を整えた京大史学科は、「政治史」中心の東大史学科に対抗し「文化史」学派と呼ぶべき独自の学風を展開していった。

 

 こうした知的環境が、桑原武夫に影響を与えずにおかなかったのは当然すぎるぐらいだ。桑原は、ポルトレ(人物評)集『人間素描』(1965文藝春秋新社)において、「京都大学の文科大学(のちの文学部)の創設期の学者たちについては、[…]こうした素描も将来この偉大な博士たちを研究するさいの資料になりうるかもしれない」としつつ、そのスケッチを試みている*8。同書には内藤湖南はじめ、隲蔵の同僚教授たちがしばしば登場するのだが、そこに次の一節がある。


 私は戦争に抵抗などという立派なことは何一つしなかったが、便乗はせずにすんだ。せずにすんだなどという変な言い方をするのは、私が無名で相手にされなかったことをさすが、同時に、京都の老先生たちの感化もあると思うからだ。よくお目にかかったのは、口をひらけば中国文化の偉大さを説かれる狩野直喜先生ぐらいだが、原勝郎、内藤湖南、内田銀蔵、喜田貞吉などという人々の本を戦争のころ楽しみによく読んだ。紀元二千六百年などというのは全くのうそで、桓武天皇の祖母は朝鮮人、伊勢神宮は大小便の神様、というようなことが頭にのこっていては、あの時勢の風潮には乗りかねるのだった*9

 

 戦時体制への「便乗」を駆け出しの桑原に押しとどめたさせたのは、「京都の老先生」の感化だと述べられているが、そこに挙げられる名前は狩野直喜(中国哲学)をのぞき、全て史学科の教授陣である。このように、桑原は紛れもなく「京大史学科の子供」なのだ。

 

 そこで桑原の業績を眺めると、たしかに、歴史学的な仕事が少なくない。『フランス革命の指導者』(1956創元社)、『世界の歴史10フランス革命とナポレオン』(1961中央公論社)、『世界の名著37ミシュレ』(1968中央公論社)など、共同研究の延長線上の編著もあれば、「歴史と小説」(1942)、「歴史と文学」(1949)、「歴史における人間の尊重」(1956)など、文学と歴史の関係性をめぐる言語論的考察もあり、さらには、内藤湖南『日本文化史研究』(1976講談社学術文庫)の「解説」までやってのける。いずれも並の「文学研究者」なら足踏みするだろう果敢な挑戦だ。

 

 なかでも、『歴史の思想』(1965筑摩書房)は特筆に価する。『現代日本思想大系』(1963-68)筑摩書房、全35巻)の一冊として編まれたこのアンソロジーは、「歴史を愛好するが、みずから歴史学者ではないところの編者」による、「マルクス史学登場までの日本近代史学を代表するとおもう歴史家」の以下の14作品を選んだものだ*10

 

  竹越与三郎「二千五百年史」(1896)
  白鳥庫吉「『尚書』の高等批評」(1912)
  津田左右吉「神武天皇東遷の物語」(1924)
  同 「神代史の性質およびその精神」(1924)
  同 「平安時代の恋愛観」(1916)
  西田直二郎「文化史と歴史学」(1932)
  内藤湖南「日本文化とは何ぞや」(1921-22)
  同 「唐代の文化と天平文化」(1928)
  同 「日本の肖像画と鎌倉時代」(1920)
  同 「応仁の乱について」(1921)
  同 「近代支那の文化生活」(1928)
  宮崎市定「中国における奢侈の変遷」(1940)
  狩野亨吉「安藤昌益」(1928)
  原勝郎「東山時代に於ける一縉紳の生活」(1917)


 
 通史的展望の大胆さにおいて竹越が、批判精神の鋭さにおいて白鳥、津田が、史学の対象を押し広げる構想力において西田、内藤、宮崎が、人物描写の的確さにおいて狩野、原が、それぞれ選ばれている。京大史学科(西田、内藤、宮崎、原)への偏り、とりわけ、湖南への偏愛が感じられるが、とはいえ、この選択は桑原の史学への期待の現れであり、同時に、専門的実証に終始し、タコツボ的に内閉した歴史叙述の貧困に対する根底的な批判となっている。桑原は言い放つ。「近代日本には、歴史家が乏しすぎるのである」と。

 

 しかしその「学」だけにとどまるならば、それは史料収集家であっても、ついに歴史家の名にあたいしないであろう。近代日本には、歴史家が乏しすぎるのである。歴史家は、すぐれた見識と鋭い洞察力、すなわち「識」をもって過去を構築しなければならないが、それを客観化するさいに、いや、むしろ客観的把握の過程そのものにおいて「才」の重要性が自覚されなければならない。その「才」とは、文章の一句一句の美しさだけではなく、いや、むしろ作品全体の構成、その展開、そのはこびのリズムを意味する。歴史を書くということが研究室内のいとなみでなく、日本の人々のためのものであるという本務が自覚されるとき、日本の歴史界は、あらためて歴史叙述の問題の反省にいざなわれるはずである*11

 

 歴史家は史料の単なる収集家(=学)であってはならない。「それは歴史の部分品であって、歴史とはいえない」*12。そこには、事実を構築する卓越した「史観(=識)」が、そしてその構築を表現する「文体(=才)」が不可欠である。歴史的事実の発見には理論的負荷が介在していること。歴史叙述が言語的構築物であること。その受容者を度外視してはならないこと。これらは、「言語論的転回」以降の歴史学にとっては常識に属することかもしれないが、実証主義史学や科学的歴史学(=マルクス主義史学)全盛の当時にあっては、むしろ勇気ある挑発だ。

 

 なお、こうした桑原の歴史学批判は、この一篇に突出するものではなく、彼の著作の至る所に散見される。自伝的著作『思い出すこと忘れえぬ人』(1971文藝春秋社)からも一つ紹介しておこう。

 

 私には、純粋の読書人になるための資格において何か欠けるものがあるのではないかという気がする。本は相当読む。しかし、活字以外に、自分のからだを動かして、自分の目でものを見なければ納得できないし、またそうした体験によってしか、本から得た知的経験は相互に結びつかないのではないかという気持がいつも私にはある。自然の風物または社会の状況をわが目で観察して、その特色をすばやく把握できない人は、本を読んでも、要点をつかみそこなうのではないかという疑問を、だから私はいつももっている。
これは反省してそうなったのではない。生まれつきそうであった*13

 

 直接的に歴史家を名指ししてはいないものの、歴史家が念頭に置かれていることはほぼ確実であり、かつ、鋭利な歴史学批判たり得ている。私なりにパラフレーズすれば、「いま・ここ」で滑っている人は、「いつか・どこか」でも、すなわち、史料を読むときにも滑っている可能性を否定できない、ということだろう。至言である。その実例を、筆者もしばしば耳目にするからだ。

 

 観察なき読書人とならないために。展望なき収集家とならないために。私たちはいまなお、「歴史家・桑原武夫」の言葉に耳を傾ける必要がありそうだ。

 




   
*1   これまでの連載でたびたび指摘した通り、新京都学派が京都盆地という独自のエコロジーを舞台としたネットワーク的な知のあらわれであり、一握りの知的巨人の活躍に還元することはできない、というのが筆者の基本認識である。にもかかわらず、そのネットワークを起動させたキーパーソンはやはり存在し、なかでも「不動の中盤」ともいうべき存在が桑原武夫であることは、これまた指摘するまでもないだろう。そんなわけで、しばらく、このセンタープレイヤーをキチンと正面突破してみようと思う。
   
*2   ただちに付け加えておくと、筆者自身は桑原の愛読者であり、彼の文体と思考に触れ、そのアクチュアリティを大いに喧伝したいと思うこと吝かではない。あえて誤解を恐れずにいえば、稀代のプラグマティスト桑原を活用できなかったことに、プラグマティックに物事を運び得ない現代日本社会の脆弱さが露呈しているのだと思う。
   
*3   現代風俗研究会・いつも会いたい桑原先生プロジェクト編『いつも会いたい桑原先生』(『いつも会いたい桑原先生』の会1990)、杉本秀太郎編『桑原武夫―その文学と未来構想―』(1996淡交社)、井波律子・鶴見俊輔『井波律子「『論語』を、いま読む」』(2006編集グループ〈SURE〉)および山田稔・鶴見俊輔『山田稔 何も起こらない小説』(2006編集グループ〈SURE〉)なども貴重。
   
*4   管見の限りでは、思想の科学研究会編『「思想の科学」50年の回想―地域と経験をつなぐ―』(2006出版ニュース社)所収の根津朝彦「桑原武夫の傘の下で」が近年のきわめて稀な試みである。なお、旧連載第3回「新書という公共圏―桑原武夫『日本の名著』という企み―」の執筆時には不勉強にも未見だったが、「松岡正剛の千夜千冊」第272夜(2001年4月17日)が同様に『日本の名著』を取り上げ、「桑原が発動し、指導し、組織化していった文化プロジェクトの質量は、いまおもうとその後の誰も追いつけないものがあった」と仕掛け人としてのパフォーマンスを的確に指摘している。
   
*5   桑原の最も長い書き下ろし作品は、おそらく、『文学入門』(1950岩波新書)および『論語』(1974筑摩書房→1985ちくま文庫)だろう。
   
*6   筆者の知人のフランス研究者は、京大人文研の書庫を見て、「これだけの蔵書で研究していたのか!」と驚愕していた。
   
   
*7   以下、拙稿2009「敵の敵は味方か?―京大史学科と柳田民俗学―」(小池淳一編『民俗学的想像力』せりか書房)参照。
   
*8   桑原武夫1980(初出1965)「はしがき」『桑原武夫集』8(岩波書店)p.568。
   
*9   桑原武夫1980(初出1954)「榊亮三郎先生のこと」『桑原武夫集』4(岩波書店)p.22。
   
*10   桑原武夫1980(初出1965)「近代日本における歴史学」(初出時「解説 歴史の思想序説」)『桑原武夫集』7(岩波書店)pp.2-3。なお、桑原が高く評価する柳田国男は、同シリーズに益田勝実編『柳田国男』(1965)があるためここには収められていない。同様の理由からマルクス主義の歴史家も未収録だが、そもそも選択の余地があったとしても収録したとは思われない。
   
*11   同上p.5。
   
*12   同上p.8。
   
*13   桑原武夫1980(初出1969)「思い出すこと忘れえぬ人」『桑原武夫集』8(岩波書店)p.138。
   
   
〔付記〕   2012年8月28日、「桑原武夫の何がそんなに偉いのか?−その1:「歴史家・桑原武夫」を考える−」より改題。その理由については、第4回の付記を参照。
   

 

 
     
 
本書の詳細
   
   
 

 桑原武夫、貝塚茂樹、今西錦司、梅棹忠夫ら、独自の作法で戦後の論壇・アカデミズムに異彩を放った研究者たち。新京都学派と呼ばれた彼らの拠点こそ、京都大学人文科学研究所(人文研)でした。気鋭の民俗学者が人文研の歴史に深く分け入り、京都盆地の、そしてそこから世界に広がる知のエコロジーを読み解きます。
 伝説的な雑誌『10+1』INAX出版)誌上で始められ、その休刊とともに中断していた連載を、ここに再開します。屈曲蛇行する探検の道のりに、どうぞお付き合いください。

   
 
   
著者・訳者略歴
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菊地 暁
(KIKUCHI Akira)

京都大学人文科学研究所助教、文学博士。民俗学専攻。
〔著書〕 2001『柳田国男と民俗学の近代―奥能登のアエノコトの二十世紀―』吉川弘文館、2005(編)『身体論のすすめ』丸善。
〔論文〕2012「〈ことばの聖〉二人―新村出と柳田国男―」(横山俊夫編『ことばの力―あらたな文明を求めて―』京都大学学術出版会)、 2010「智城の事情―近代日本仏教と植民地朝鮮人類学―」 (坂野徹・愼蒼健編『帝国の視角/死角 〈昭和期〉日本の知とメディア』青弓社)、2008「京大国史の「民俗学」時代―西田直二郎、その〈文化史学〉の魅力と無力―」(丸山宏・伊従勉・高木博志編『近代京都研究』思文閣出版)、2004「距離感―民俗写真家・芳賀日出男の軌跡と方法―」(『人文学報』91)など(詳しくは、ここを参照)。

参考情報:「INAX出版」ウェブサイトはこちら

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