『シャルル・ドゴール
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民主主義の中のリーダーシップへの苦闘』
「おわりに」より
渡邊 啓貴(東京外国語大学大学院教授)
現代史に生きるドゴール
本書はいくつかの新しい側面からドゴールの全生涯を、現代フランス政治・外交・社会および先進社会の民主主義的リーダーシップのあり方を念頭におきつつ、描いた作品である。
わが国では、ドゴールという人物は一面的に語られる場合が多い。ドゴールは祖国を危機から救った英雄であるが、一九六八年五月騒動の際には、新しい時代の息吹を理解できなかった老政治家として学生たちの反抗の対象となった。したがって解放の軍事的英雄であるが、新しい時代にはついていけなかった、頑迷固陋の軍人政治家、「墜落したカリスマ」という単純なイメージをもって見られているのが普通ではないだろうか。
しかし、ドゴールという人物ははたしてそれだけの人物でしかないのであろうか。わが国では、ドゴールについてその全体像を明らかにした業績はほとんどない。この数年になって、その時代と人柄に触れた作品、核戦略や独仏関係のような、範囲を限定した作品が出版されているが、本書のようにドゴールという人物の全体像を歴史的文脈の中で解明しようという試みではない。
ドゴールの生涯を考えるうえで、筆者にとって感慨深いエピソードがある。
二〇一〇年はドゴール没後四〇周年の年であった。パリ・ドゴール空港に降りたつや、通路の壁やパネルに様々なドゴールの写真とビデオ映像が目に飛びこんできた。周知のように、フランス人は今でも歴史上の人物名を掲げた通り名を愛用する。全国津々浦々の小さな村落にまで「ドゴール通り」や「(第二次大戦)解放通り」がある。ドゴールが没して、四〇年以上が経つ。今日のような時代、よほどのことがない限り、それだけの時間を経て人口に膾炙される人物は数少ない。歴史の中に名前を残そうとして、晩年に自分がヴィシー体制の対独協力者であったことを自ら告白したミッテラン大統領が亡くなってから一六年がたつが、人々は彼についてどれだけのことを語っているだろうか。書店にミッテランについての新しい本が並ぶことはもうほとんどない。しかし新しい発見はそれほどないものの、まるで人々が彼を忘れてはならないと思っているかのように、毎年ドゴール物の本が何冊も出版される。
それはフランス国民の単なるノスタルジアなのであろうか。筆者はそうは思わない。三年ほど前にパリの廃兵院(アンヴァリッド)に付設されたドゴール・センターを訪れる機会があった。そこではお馴染みのドゴールの写真や肉声の録音・映像が公開されている。意外な写真も掲示されており、記録映画の上映も行なっている。案内嬢はドゴールの名前が歴史でしかないはずの世代であるが、彼女は「この映画は現代世界の映像が一杯ですよ」と言って筆者にも「ぜひともご覧ください」と、鑑賞を勧めてくれた。
そのときふと、いまさらながらに思い当たった。ドゴールはフランス人の心にまだ生存する。ドゴールを語ることはその案内嬢の言うように、文字通り「現代のフランス」を語ることだからである。人々はドゴールを通して現代のフランスの「起源」を繰り返し確認しているのである。ここから自分たちは再スタートしたのだ、と。
そのことを示す数字がある。二〇一〇年に実施した世論調査(Centre d’ Information sur le Gaullisme, 2010. 11. 08)では、フランス人の七〇%がドゴールをフランスでもっとも重要な歴史的人物と考えている。とくにフランスの偉大さを「フランスの独立(六〇%)」、「防衛(五八%)」、「フランス人の結集(五七%)」の分野で成しとげた人物として支持されている。シャルルマーニュ(三四%)やナポレオン(三八%)ははともかくとして、歴代大統領でドゴールに続くのは、ポンピドー(四六%)、シラク(三九%)、ミッテラン(二七%)、ジスカール・デスタン(二一%)、サルコジ(一〇%)の順となる。
加えて、ドゴールの人物像の第一のイメージは「六月一八日の男(BBCで対独レジスタンスを呼びかけた男)」であると評価するフランス人が四四%で、「解放の男」(二六%)、「第五共和制の大統領」(二〇%)がそれに続く。フランス人はドゴールを一徹で頑迷な人物とみなしつつ、他方で祖国のために生命を投げうった無私の勇気ある者として敬意を表しているのである。ドゴールは歴史上の人物といってもよいが、今なおしっかりと現代のフランスに、そしてフランス人の心に生きているということができるであろう。
(中略)
誤解されるドゴール像
(中略)わが国のドゴール評価には依然として誤解と極端な思い込みがある。
第一に、ドゴールに対する多くのネガティブなイメージが特殊日本的な状況の中で醸成されてきたことである。それは、六八年世代の反権威主義的な風潮によるところが大きい。
六八年五月の学生暴動の中で、批判されたドゴールであったが、その直後の国民議会選挙ではドゴール派は快勝し、国民の支持を得て逆に安定政権を約束された。しばしば誤解されているのであるが、ドゴールは五月暴動で失脚したのではなかった。その後に自ら演出した強引な自己正統化のための、勝機に乏しい国民投票の結果、辞任したのである。
権力に固執することが政治家の本性であるとすれば、このドゴールの行為は政治家の行為ではない。ある意味では自己陶酔的で、稚拙な行為であったともいえよう。そこに軍人政治家としての頑迷さを指摘することもできるが、同時にそれはドゴールを権謀術数の政治家としては断じ切れない一面でもある。ドゴールに対する反発は、独りよがりで、傲慢さを隠そうともしない、その行動スタイルにあったのであろう。
第二に、核兵器を擁した対米自立政策の解釈についてである。ドゴールの外交は独自の核兵力を保持し、アメリカに対して正面から議論を挑んだ「自立外交」と称されるが、本書で論述したように、その「自立」はあくまでも巧妙な論理に支えられた「行動の自由」を少しでも得るための「演出」であった。核兵器の保有は、それ自体で自立を意味するのではなく、自立のためのひとつの重要な手段であった。
その一方で、ドゴールの対米「自立外交」には、思想信条上での左右を問わず、喝采が送られる向きもある。しかしそれはわれわれ日本人の判官びいきとアメリカに対するコンプレックスの裏返しの表現である場合が多い。つまり冷戦期のアメリカの絶対的優位を背景にした力の不釣り合いな「覇権的同盟(日米・米欧)関係」の中でアメリカに大きく依存しつつ、他方でアメリカの対応へのフラストレーションを弱者の反発感情として日欧は共有しているのである。日米同盟が日本外交にとって不可欠の要素であることは十分に承知していながら、強大な同盟国アメリカに対する圧迫感からの解放をドゴール外交が小気味良いまでに表現していたことに人々はエールを送るのである。実際にはドゴールはフランスの偉大さを貫いたのではなく、フランスをいかに「偉大」に見せるかに腐心した。そしてそのドゴールの志を人々は高く評価したのである。
筆者はドゴール主義という言葉の定義をめぐる議論をすることにそれほど意味があるとは思わない。論者が思い思いのイメージを語っていることが多いからである。外交面でのドゴール主義とはイメージが先行した表現である。ドゴール主義とは不退転の決意をもって正当性を主張していく中で、存在感を示していくスタイル(処世訓)を意味している。それは、大勢に靡(なび)いていく後ろめたさに苛まれつつも、自己弁護のための巧みな言辞で自らの不実を糊塗する心理とは一線を画している。第二次大戦に突入していった時期のフランス外交論議やアルジェリア解放戦争の混乱の時期の退嬰主義とよばれた停滞感、「失われた二〇年」と言いつつ、今なお根底的な社会改革に逡巡する今日のわが国の国民意識と対極の姿勢であった。その意味では、左右どちらの側の人にとっても、ドゴールは「天晴れな人物」なのである。
(以下、続く)
本書はこちら 『シャルル・ドゴール――民主主義の中のリーダーシップへの苦闘』
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