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オリジナル連載

福沢諭吉の出版事業 福沢屋諭吉
〜慶應義塾大学出版会のルーツを探る〜

第6回:「福沢屋諭吉」の営業活動(その3)

 

目次一覧


前回 第5回
「福沢屋諭吉」の営業活動(その2)

次回 第7回
「福沢屋諭吉」の営業活動(その4)

本連載は第40回を持ちまして終了となりました。長らくご愛読いただきありがとうございました。

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 今回もまた福沢書簡を読みながら、『世界国尽』(せかいくにづくし)をめぐる福沢諭吉と三田藩知事(さんだはんちじ)九鬼隆義(くき たかよし)との間のやりとりの続きをたどってみることにしよう。今回もまた、引用する史料は適宜現代風に改めた。興味のある方は、出典(慶應義塾『福沢諭吉書簡集 第一巻』岩波書店 2001年)をご覧いただきたい。


 まずは、明治3(1870)年2月15日付の九鬼隆義宛福沢諭吉書簡から。


   
〔前略〕『世界国尽』を200部お買いになるとのこと、ありがたく思います。製本ができ次第箱詰して、お屋敷まで発送したいと思います。〔後略〕

 この書簡には、次のようなメモが同封されている。


『世界国尽』200部は、一・二日中に通商丸へ積み出すつもりの事
世界国尽

 前回に紹介した明治3(1870)年1月22日付の福沢書簡で、九鬼に対して『世界国尽』を売り込んでみたところ、九鬼は早速200部も注文してくれたことが読み取れる。


 次に、明治3(1870)年2月20日付の九鬼隆義宛福沢諭吉書簡。


〔前略〕ご注文の『世界国尽』の製本ができましたので、200部を納めます。代金等のことは担当の係の者が管理することであって、直接に申し上げるのは昔からの習慣に反し、礼を失するようですが、無益の手数を省き、有害の間違いを防ぐため、わざと直接に勘定書をご覧に入れました。悪く思わないでお聞き入れ下さるようお願い申し上げます。〔後略〕

 この書簡にも、次のような「三田藩宛福沢屋諭吉覚書」が同封されている。


           覚    
    金250両也  世界国尽 200部代 1部につき金1両1分
              37両2分 定価1割半引
             残正味
              212両2歩也
           

この通りになりますので、代金は為替でお送り下さるようお願い申し上げま す。以上。

            2月20日 福沢屋諭吉
             

三田様御取次衆中様

            なお、本書1割半引と申すのは、定価の代金100分の15を減じますことで、たとえば100匁(もんめ)のものだと、そのうち15匁を引き、残りの正味85匁になります。よってこのたびの訳書代金250両、つまり金1両60匁替の相場で、銀にすれば15貫目になります。15貫目を100で割るとその1分は150匁ですから、150匁を15倍して、2貫250匁になります。これを金にすれば37両2歩となります。
            運送費は、私方よりの売り物ですので、大坂の方のお蔵屋敷まで私方より運賃を負担します。大坂より三田までは、そちら様でお請け持ち下さい。〔後略〕 
 

 ここでは、「福沢諭吉」と「福沢屋諭吉」を使い分けている。つまり、九鬼宛の納品状は「福沢諭吉」からの差し出しで、三田藩の担当係への勘定書は「福沢屋諭吉」からの差し出しになっている。その勘定書によると、先の1月22日付書簡で売り込む際に約束した“大量購入割引制度”について、具体的に数字をあげながら説明している。銀遣いの関西経済圏に配慮して、わざわざ銀価にまで換算しながら丁寧に計算している。確かに、四進法の金価(1両=4分・歩)の1割5分引きと言われてみても、慣れない者にとってなかなか簡単には計算できない。よろしければ、読者の皆様もお試しあれ。1両1分×200部×0.85(または0.15)=? それにしても、三田藩の計算能力を福沢は相当心配していたのであろうか。いずれにしても、200部の買上で割引率は定価の15%であることがわかる。これは、前々回に紹介した明治2年12月25日付の柏木そう蔵宛福沢書簡の中で示された割引率と同じである。相手が元大名の殿様であろうと一地方官であろうと、割引率は一定であるところがいかにも福沢らしいと言える。


 もう一つ福沢らしいと言えば、従来の商慣行と違って貴人に対しても直接勘定書を同封している点が注目される。「無益の手数を省き、有害の間違いを防ぐため」と断っているが、無意味な形式主義を排除する福沢のこのような姿勢は少年の頃から一貫していた。『福翁自伝』の中には、「青天白日に徳利」という次のような話が収められている。


 藩の小士族などは、酒、油、醤油などを買うときは、自分自(みずか)ら町に使いに行かなければならぬ。ところがそのころの士族一般の風(ふう)として、頬冠(ほおかむり)をして宵(ヨル)出掛けて行く。私は頬冠は大嫌いだ。生まれてからしたことはない。物を買うに何(なん)だ、銭(ぜに)をやって買うに少しも構うことはないという気で、顔も頭も丸出しで、士族だから大小は挾(さ)すが、徳利を提(さ)げて、夜はさておき白昼(はくちゅう)公然、町の店(みせ)に行く。銭は家(うち)の銭だ、盗んだ銭じゃないぞというような気位(きぐらい)で、却って藩中者(はんちゅうもの)の頬冠をして見栄(みえ)をするのを可笑(おか)しく思ったのは少年の血気、自分独(ひと)り自惚(うぬぼれ)ていたのでしょう。


 そして、明治3(1870)年4月25日付の九鬼隆義宛福沢諭吉書簡。


 4月12日のお手紙が同月20日に届き、ありがたく拝見いたしました。〔中略〕『世界国尽』200部をお受け取りになられたとのこと。代金は当地にてお屋敷より受け取りました。〔後略〕

 この書簡には、次のような証書が同封されている。


      金子請取証書 福沢諭吉        
                         
        金212両2分也 但金札    
     

これは『世界国尽』200部、定価1部に付き金1両1分。200部代250両になりますところ、1割半引の割合をもって、212両2分をたしかに受け取りました。以上。

          明治3年2月27日   福沢諭吉
           

近藤泰之進様

   

 宛名の近藤泰之進とは、三田藩の藩士である。おそらく、この商取引の担当者であろう。どうやら商品は無事に届けられて代金も為替にて滞りなく支払われたようで、この領収証をもって商取引が済んだことが読み取れる。


 元大名に対しても、お構いなく堂々と勘定書を送りつける福沢屋諭吉。あの同封された1枚の勘定書には、商業や金銭を必要としながらも卑下する江戸時代の風潮に対する福沢なりの決別であるとともに、そのことにきっと共感・同意してくれるであろう九鬼に対する福沢の熱い期待が込められていたのではないだろうか。


 九鬼に対する福沢の思い入れは、まだまだ続く…。

 

 

写真1 九鬼隆義 『三田評論』2006年3月号 59頁
写真2  『世界国尽 三』 21丁ウラ・22丁オモテ (慶應義塾による復刊版)
著者プロフィール:日朝秀宜(ひあさ・ひでのり)
1967年生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科史学専攻博士課程単位取得退学。専攻は日本近代史。現在、日本女子大学附属高等学校教諭、日本女子大学講師、慶應義塾大学講師、東京家政学院大学講師。
福沢についての論考は、「音羽屋の「風船乗評判高閣」」『福沢手帖』111号(2001年12月)、「「北京夢枕」始末」『福沢手帖』119号(2003年12月)、「適塾の「ヲタマ杓子」再び集う」『福沢手帖』127号(2005年12月)、「「デジタルで読む福澤諭吉」体験記」『福沢手帖』140号(2009年3月)など。

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