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中世のイギリス  立ち読み

『中世のイギリス』  

第三章 アンジュー帝国 1154―1204年 より抜粋

 

エドマンド・キング著 吉武憲司監訳
 

第三章 アンジュー帝国 1154―1204年 より抜粋

     エドモンド・キング著
     吉武憲司監訳 

 

リチャード一世の治世

 一四世紀初め、ある王の書記は、若き王エドワード二世の能力を真剣に疑い始めたとき、彼が祖先と同じように立派な資質を示してくれるとよいのだが、と考えた。ヘンリー二世は「精力的で勤勉」だった。リチャードは「勇敢」だった。ヘンリー三世は「長命」であり、エドワード一世は「賢明」だった(リチャードとヘンリー三世のあいだにくるジョン王は、さりげなく無視されている)。リチャードの勇敢さは、伝説的なものとなっていた。彼は実際よりも過大な評価を得た王だった。その名声は、短い期間に、一一九一年六月八日から一一九二年一〇月九日にかけて第三回十字軍に参加した時期に確立された。そのとき、彼は、十字軍王国の海岸地域の多くを西方の支配下に確保した。彼は、アッカーの攻囲戦から戦いに加わった。この町は、一一八七年、ヒッティーンの戦いの後に、サラディンによって占領されたものだった。アッカーの守備隊は、一一九一年六月一二日に降服した。リチャードは、その後、南に進軍し、エルサレムへの補給にとって重要な町ヤッファへと向かった。彼は、十字軍の補給路を分断しようとしていたサラディンに反撃を仕掛け、彼をアルスーフで打ち負かした。ヤッファは降服したが、リチャードはエルサレムに到達することができなかった。危険が大きすぎたのである。リチャードは、ときおり衝動的な行動をとる人物だったが、けっして衝動的な指揮官ではなかった。人々の想像力を捉えたのは、サラディンとの対決だった。イングランド人は、十字軍のために多額の金を支払ったし、また、リチャードが帰国の途次捕虜となったとき、その解放のために以前に劣らない額の身代金を用立てた。しかし、イングランド人は喜んで支払った。イングランド人は、十分な数の聖人を得ていたが、軍事的英雄というものをほとんどもっていなかったのである。リチャードは、ベケットと同じように、またたく間に名声を得たのだった。

 第三回十字軍は、理論的には、西ヨーロッパ・キリスト教世界の指導者たちによる共同事業だった。しかし、現実には、指導者たちは分裂していた。アッカーの攻囲戦に参加していたイングランド人聖職者が故国へ送った書簡は、キリスト教徒軍の道徳的品性の欠如を嘆き、その分裂を強調している。「君公たちはお互いに反目し、地位を争っている。」これは、フランス王とイングランド王の到着以前のことであり、その後の両王の対立はさらに人々を困惑させることになった。フィリップ尊厳王は、到着後数週間のうちに聖地を去った。彼はそのとき、リチャードのフランスでの権益を保護すると誓ったが、そうする気はさらさらなかった。一一九二年一〇月、リチャードが故国へ向け出帆したとき、西ヨーロッパでは敵対的な状況が待ち受けていた。トゥールーズ伯が、フィリップ尊厳王にそそのかされ、リチャードへの襲撃を計画しているという報告がなされた。そのため、リチャードとその一行は、アドリア海を北上し、オーストリアとラインラントを経由して帰国しようとした。しかし、その地も友好的でないことがすぐに明らかとなった。彼らは、裕福な巡礼者を装っていたが、オーストリア公の家臣に見破られ、捕らえられてしまった。公もまた、アッカーの攻囲戦に参加しており、そこでリチャードと仲違いしていたのだった。フリードリヒ・バルバロッサを継いだドイツの神聖ローマ皇帝ハインリヒ六世は、すぐにこの貴重な獲物を得ようと動いた。ハインリヒはドイツとイタリアで敵を抱えていたが、彼らはリチャードの同盟者だったのである。リチャードは、一一九三年のあいだ、まずシュパイアーで、それからマインツで幽閉され、一一九四年二月四日になってようやく自由の身とされた。一一九三年月六月に王の解放が合意されたが、一五万マルクの身代金がその代償として要求され、即座に支払われた。捕囚のあいだ、使者がたびたび王を訪れ、イングランドの状況について知らせていた。

 イングランドからもたらされた知らせは、よいものではなかった。王の捕囚により、国が不穏な状況におちいっていた。「諸侯すべてが動揺し、城が補強され、都市の防備が強化され、壕が掘られた。」しかも、リチャードの弟ジョンにたいする不平不満が高まっていた。ジョンは、リチャードの治世初めの数週間にほかの者よりも優遇された扱いを受けていた。彼はイングランドに広大な所領を与えられた。彼は、グロスター伯領の女子相続人と結婚することにより、イングランド南西部とミッドランド地方北部に土地を得ていた。これらの土地は、ジョンに独立性を提供していたが、イングランド統治における責任ある地位や戦略的重要性を与えたわけではなかった。ジョンは、リチャードの留守中に、こういった地位を獲得しようと企てたのである。リチャードはウィリアム・ロンシャンを行政長官に任命していたが、彼が諸侯の反感によって罷免され、イングランドから追放されたとき、ジョンが統治に責任を負う地位を得る可能性が生じた。リチャードが帰国の途次姿を消し、国防省による戦況報告の表現を使うならば、彼が「行方不明、死亡したものと推測される」と判断されたとき、ジョンは謀反を実行に移したのである。一一九三年一月、ジョンはフランス王と協定を結んだ。王は、ノルマンディーに侵入し、イングランドを侵略するために艦隊を準備させた。リチャードの弟の攻撃からイングランドとノルマンディーを防衛するのは、その役人たちの仕事だった。彼らは大成功を収めた。ルーアンはしっかりともちこたえ、イングランドのジョンの城は攻囲された。捕囚の身であれ、リチャードの居場所が明らかになると、フランス王は講和を求めた。リチャードが解放され、イングランドに帰国し、ジョンの反乱は挫折した。

 リチャードは、わずかな期間しかイングランドに滞在せず、弟を自分の代理の地位に任命しただけだった。彼は、一一九四年三月、サンドウィッチに上陸した。そして、五月一二日バルフルールに向けて出発し、二度とイングランドに戻ることはなかった。リチャード不在時のイングランドの歴史は、フランスにおける王の戦争のために資金と軍隊を集め送る物語だった。それは注目に値する話であり、それには際立った英雄的人物が存在した。それは、ヒューバート・ウォルターだった。彼は、行政長官ラーヌルフ・グランヴィルのもとで訓練を受け、行政組織の役職を昇っていった。彼は、リチャードとともに十字軍に参加し、軍隊にキリスト教的規律を回復し、物資補給においてすぐれた能力を発揮した。リチャードは、一一九三年、牢のなかから書簡を送り、ヒューバートのカンタベリー大司教任命を支持した。ヒューバート・ウォルターは、ソールズベリーのロジャーによく似た財務行政家だった。彼の経歴は、発想と規模において目を見張るべき金銭の徴収によって彩られている。サラディン・タイズ(十分の一税)は、第三回十字軍の費用を捻出するために徴収された。それは、土地税ではなく動産査定にもとづいているという点で新しいものだった。リチャード解放のための身代金徴収もヒューバートらしい特質を示している。これは、以前のやり方を踏襲しており、非常に厳しいものだった。俗人は、年収の四分の一を抵当にしてお金を借り、聖職者は聖杯〔カリス〕や銀の皿を質に入れた。シトー会修道士は(そのような高価な器具をもつことを拒否していたため)羊毛刈り入れ量一年分相当の額を借金して支払った。一一九七年、リチャードは、一年を通してノルマンディーで勤務できる騎士三〇〇名を送るよう要求した。これは前例のないことだった(このような方策は、王の軍隊が指揮官不足で困っている状況を示唆している)。この新しさのために反対の声があがった。しかし、ヒューバート・ウォルターは必要とされた人数を確保した。伝えられるところでは、彼はこの時期、過去二年間に一一〇万マルクを大陸での戦費としてリチャードに送金したと主張していたという。この額は、誇張されていたとしても、驚くべきものである。中世の残りの時期に、これに匹敵する額がこれほど短期間に徴収された例は存在しないのである。

 ヒューバート・ウォルターは、驚くべき資質と創意に恵まれた役人だった。この時期、王の書状に関して最初の恒常的な記録があらわれた。これ以後、封緘書状録〔クロース・ロール〕と開封書状録〔パテント・ロール〕と(封印方法に従って区別されるもの)により、イングランド政府の日々の活動を知ることができるようになった。地方行政においても、また変化が見られた。一一九四年九月、ヒューバート・ウォルターは、各州に検屍官〔コロナー〕を配置した。検死官は、突然生じた疑義のある死亡に関して報告する義務を負っていた。検屍官録〔コロナーズ・ロール〕はそれゆえ、イングランドの犯罪を研究する歴史家にとって必要不可欠な史料となっている。また、ヒューバートは、ユダヤ人にたいしてなされた負債と抵当についても記録を残すよう命じた。イングランドの地方史を研究する者にとって、三分割最終和解譲渡証書〔フィート・オヴ・ファイン)も同様に欠かすことのできない史料である。これは、ヒューバート・ウォルターのすぐれた発想を示すもう一つの例である。紛争を終結させようとする両当事者は、これまでは、一葉の羊皮紙に合意事項を二通書き記し「最終和解譲渡証書」を作成し、それを二つに分割し、それぞれ相手側の文書に印章を付与していた。いまやこれに三番目の写し、最終和解譲渡証書の「基部文書〔フット〕」が羊皮紙の下部に作成され、切り離され、公文書として州別資料のなかに保管されるようになったのである。一一九六年には、度量衡条例〔アサイズ・オヴ・メジャーズ〕によって、計量単位の一般基準が制定された。それは、毛織物、ビール、穀物、ワインの計量単位の一般基準を規定した。そして、「升と計量壺〔ガロン〕、鉄尺〔ロッド〕、天秤竿と分銅をイングランドのすべての州に送るために」、一一ポンド・一六シリング・六ペンスが支払われた。ヒューバート・ウォルターはどんなに細かなことにも目を光らせていた。一一九七年には、王がイングランドに帰国すると噂されていた。そこでヒューバートは命令を出した。ウィンチェスター城の台所を修理するように、また、サウスハンプトンからワインを運びイングランド南部の主要な狩猟用の館に備えておくようにと。

 しかし、リチャードが帰国することはなかった。彼の政策の最重要課題は、大陸領土の防衛だった。ヴェクサン地方とベリー地方の二ヵ所で戦線が存在した。リチャードは、この二つの地域に資源を集中し、そこで同盟者を得ようとした。外交的な大勝利が達成された。南部では一一九六年のリチャードの妹ジョウンとの結婚によりトゥールーズ伯との同盟が形成され、北部では一一九七年にエノー・フランドル伯ボードゥアンとの協定が成立した。後者の地域では、政治的圧力とともに経済的圧力が課せられた。「フランドルにいる王の敵どもに穀物を送った」者たちから膨大な額が徴収された。キングズ・リンとダニッチの商人たちは、それぞれ約一〇〇〇マルクの科料を支払った。このような政策とともに、軍事的方策もとられていた。その象徴的存在が、セーヌ川沿いのレ・ザンドリーに築かれたシャトー・ガイヤールであり、それは現在においても、リチャードの軍事的才覚と野心を示すものとして聳えている。戦場においても勝利が得られた。その規模は小さいが、非常に宣伝効果のあるものだった。一一九四年、ヴァンドーム近郊のフレトヴァルにおいて、リチャードは、フィリップ尊厳王を戦場から駆逐し、その財貨・財宝と大量のフランス王文書を奪った。一一九八年には、ジゾールにおいて、フランス軍は、迎撃され、混乱状態で城へと逃げ戻った。城の橋が重装備をした者たちの重みに耐えかねて落ち、少なくとも二〇名の騎士が溺れ死んだ。

 リチャードは、外交と戦争において戦略家として卓越した才能を示し、フランス王に反撃し、相手の領土を荒らし悩ませた。彼は、十字軍出征と捕囚の期間に失った領土を取り戻すことができた。しかし、それにもかかわらず、彼は守勢に回っていた。シャトー・ガイヤールは防御施設であり、ノルマンディーへの主要な攻撃路を守っていた。攻撃する側にいたのはフランス王だった。フィリップは、一一九〇年代に重要な土地資源を手に入れ、それをより効果的に使用するために行政制度を発展させた。彼は新たな同盟者を獲得することができ、リチャードは、彼らに対抗するために新たな資金や人的資源を注ぎ込まざるをえない状況に追い込まれた。一一九九年春、リチャードは、そのような流れのなかで不可避となった遠征を行った。彼は、リモージュ副伯とアングレーム伯と対決するため、南へ向かった。王は、シャリュー・シャブロルの攻囲戦で弩の矢を受け、その傷は壊疽となった。彼は一一九九年四月六日に死去した。その遺体は、フォントヴロー女子修道院へと運ばれ、母親と父親のそばに埋葬された。リチャードは、フランスに埋葬された最後のイングランド王となった。



 
著者プロフィール:著者プロフィール【著者】エドマンド・キング(Edmund King)

シェフィールド大学文学部史学科中世学教授。 1942年生まれ。ケンブリッジ大学で歴史学を専攻。マイケル・ポスタンのもとてピーターバラ修道院領の研究に取り組み、同大学より博士号取得。主要な著作・編著に以下のものがある。Peterborough Abbey 1086-1310: A Study in the Land Market (Cambridge U. P., 1973); England 1175-1425 (Development of English Society series) (Routledge & Kegan Paul, 1979); The Anarchy of king Stephen's Reien(Oxford U. P., 1994)

【訳者】吉武憲司(よしたけ けんじ)

 ※監訳、序章〜3章担当
1988年慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程単位修得退学。 現在、慶應義塾大学文学部教授。 主要業績:「12世紀前期イングランドにおける財務府の形成とその意味」[渡辺節夫編『ヨーロッパ中世の権力編成と展開』(東京大学出版会、2003年)所収]、「Domina AnglotumとDominus Anglie――12世紀イングランド王位継承に関する一考察――」[國方敬司・直江眞一編『史料が語る中世ヨーロッパ』(刀水書房、2004年)所収]。

 

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