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書籍の特集

『<癒し>のナショナリズム』
著者からのひとこと

第1回:あとがき Part2
 
 

 

学生が卒論を書くさいには、テーマ探しに難航することが多い。よく言われるように、テーマさえつかめてしまえば、作業の半分は終わったようなものである。もちろん、それが学問的・社会的に有意義であり、自分が持つ限られた時間と能力で具体的な研究が可能であるというテーマを設定するには、当該分野の先行研究や研究手法をそれなりに理解したうえでないと不可能だということを含めての話である。


 そうしたことを前提としたうえで、学生が「テーマが見つからない」という場合には、私はたいてい「とりあえず調べてみたら」と応えている。先行研究の「穴場」を示唆するというようなことは、まずやらない。


 そもそも「テーマ」は、「穴場」などに完成品として転がっているものではない。研究とは、仕事や恋愛と同じように、自己と対象の化学反応であり、関係である。「恋人」や「友達」は、完成品としてどこかに転がっているのではなく、「○○さん」や「××さん」と関係を築いた状態のことである。当然ながら、一時は「恋人」や「友達」だった人間も、関係が悪化すれば「○○さん」や「××さん」にもどってしまう。


 同様に「テーマ」もまた、自己がそれに取りくんで「研究という関係」を築いてゆくなかで、はじめて「テーマになる」ものである。だから、取りくんでみないかぎり、調査をして関係を築いてみないかぎり、それが自分にとって「テーマ」になるかどうかなど、わかりはしない。


 私事にわたるが、本を書き上げて出版すると、「お次のテーマはなんですか」と聞いてくるインタビューなどが時々ある。私のほうは、「そんなことが今からわかるわけがないじゃないですか」と答えることが多い。そういう聞き方をする人は、「テーマ」が完成品のようなかたちでどこかに転がっていて、研究者は「テーマを探してくるのがうまい人」なのだ、とでも考えているのだろうか。


 またあるいは、「最近出した本のテーマは、要するに何だったんですか。読むのも面倒だから、要約して教えてください」という人もいる。しかし読者が本から感じとる「テーマ」とは、読者がその本を読んでいくなかで、本と築いた関係である。それが私にわかるわけがない。よしんば私から「テーマの要約」を聞いたところで、「要約を聞いた」という以上の関係は築けない。そんなものが、面白いわけがないと思う。


 ところが学生や大学院生と話していると、「テーマ」を「要約」の形で入手できると思っている者や、どこかの「穴場」から「テーマを探す」という発想を抱いている者が、案外に多い。もっとも世の中には、「恋人探し」や「友達探し」、はては「自分探し」という言葉まであるようだ。「恋人」が関係や記憶の集積であるのと同様に、「自分」や「テーマ」も社会的諸関係や経験・記憶の集積であり、「探す」という発想で見つかるはずがないと私などは考えてしまう。


 どうしてそのような発想が流布するのか考えてみたが、思いつきでいうと、消費社会ないし情報化社会の影響を考えることも可能だろう。完成品の商品や情報を「探して購入する」という獲得形態に慣れきっていると、「自分でつくる」という発想じたいが馴染まなくなる。金銭によって万物が計られる資本主義社会では、万物を計測する道具的理性が蔓延すると考えたのはアドルノだが、それに倣っていえば、「テーマ探し」「恋人探し」「自分探し」などは消費社会のイデオロギーの一形態だと考えられるかもしれない。


 ほんとうは多くの人は、完成品の商品そのものではなく、それを獲得するにまつわる経験を買っているのだと思う。店頭ではきらびやかにみえた商品を買って自宅に持ちかえると、すでにその品物は輝きを失っているという経験は、多くの人にあるだろう。そのとき「購入した」のは、というより「購入したはずだった」のは、商品という物体ではなくて、店頭の賑わいやディスプレイの輝き、そして何らかの偶然や必然でその店頭にまで辿りついてたたずむ、自分の経験や記憶だったはずだ。旅先で感動した風景や、友人との楽しい瞬間を写真にとっておくように、指先からこぼれおち流れ去ってゆく経験や記憶をつなぎとめるために、商品という物体に金を払っているのである。

 とはいえそうした形態で消費を続けていても、満足が得られることはあるまい。いつも毎回、自宅に持ちかえった商品が「思ったよりつまらない」と感じ、失望する経験をくりかえすだけだろう。消費と失望の経験をくりかえすたびに、飢餓感がより強く刺激され、次の消費と失望を招いてゆくという、無限のサイクルに巻きこまれてゆくだけだろう。ある種の「要領のよい」大学院生などには、こうしたかたちで「テーマを探す」ことをくりかえしているうちに、所蔵する情報量だけが増大し、「おたく」や「評論家」という形容を与えられる存在になってゆく者もいる。


 竹内好は一九四八年の「近代とはなにか」を始めとした一連の論考で、日本の文化や文学は「優等生文化」であり「コドモの文学」だと述べている。竹内によれば、日本は中国や西洋から完成品の文化や制度を輸入してくるという経験に慣れきっていたために、外部にある評判のよいもの、優れたものをいちはやく発見し、輸入してくる「優等生文化」が定着した。そこでは、外部から「かつて与えられた、いまでも与えられている、将来も与えられるだろうという、与えられる環境のなかで形成されてきた心理傾向」が支配的となり、危機に陥っても完成品の制度や文化を外から探してこようとするだけで、ますます状態を悪化させている。その結果、「輸入されたものが次々と古くなって捨てられてゆくだけ」であるばかりか、「現実」や「主体性」や「自己」をも与えられるべき完成品と考え、「『主体性』を外に探しに出かけていく」ことや「現実という実体的なものがあって、無限にそれに近づくこと」が行なわれる。こうして、いつでも外に救いを求めている状態は「まるでコドモ」であり、「いくら年をとってもそのままではオトナにならない」という。


 私は竹内のこの立論を、日本文化論としては必ずしも賛同しないが、ある種の「心理傾向」の分析としては興味深いものだと思う。そして上野陽子の「史の会」の調査を読んでいて、会員たちの発言に感じたのも、同様の「心理傾向」であった。


 私は「史の会」や「つくる会」につどう人びとが、ある種の解放を求めているということは否定しない。上野もいうように、彼らは平均よりも「真面目さ」と「熱情」をもつ人びとなのかもしれない。しかし私が彼らに言いたいことがあるとすれば、一つはそのような「真面目さ」が、マイノリティや国内政治、国際関係にどのような影響を及ぼしているかを、主観を離れて考えて欲しいということ。そしてもう一つは、「そんなことをしていて本当に楽しいですか」ということである。


 上野によれば、彼らには「普通」という以外に、「自らを表象することば」がない。「サヨク」や「朝日」などを「普通でないもの」として排除し、その消去法としてみずからを「普通」と位置づけることしかできていない。しかし本文でも記したように、彼らは現実の「左翼」をほとんど知らないまま、自分のつくりあげた「サヨク」の像を非難するばかりである。「つくる会」の幹部たちもまた、「戦後民主主義」の何たるかをほとんど知らないまま、ひたすらそれを批判して「アンチ左派」の立場を定めている。


 他者との関係で自己の位置を定めるのは、通常の現象である。しかし彼らがやっているのは、自己の内部でつくりあげた「サヨク」や「戦後民主主義」を批判することで、あるいはやはり自己の内部でつくりあげた「戦前の日本」や「伝統」の像に同一化することで、自己を位置づけようとしていることである。他者といっても自己の内部の投影でしかないとすれば、自己の内部で空回りしているだけだ。これはすなわち、「自分の髭をひっぱって沼から抜け出そうとした男」という逸話に近い行為でしかない。そんなことで満足を得られるとは、私には考えられないのである。


 一九五〇年代から六〇年代によく知られた言葉として、「わかるということは変わること」というものがある。「わかること」とは、自分の内部にあるカタログを増やしたり、自分のつくりあげた分類枠に他者を裁断し押しこめることではない。「わかること」は他者や世界と何らかの関係を持つことであり、その関係のなかで自分が変化してゆくことであるはずだ。それは自閉的な自己ではない「自己」を獲得することであり、竹内好の表現を借りるなら、「もし私がたんなる私であるなら、それは私であることですらないだろう。私が私であるためには、私は私以外のものにならなければならぬ時期というものは、かならずあるだろう」という過程でもある。


 私にとって「研究」とは、そのような行為である。だからこそ「つくる会」についても、調査を伴わない一方的批判には自閉的な匂いを感じてしまうし、上野の卒論は「学術論文」としての完成度とは次元のちがう意味で「研究」たりえていると考えた。私も「つくる会」を研究することで、上野ほどではないかもしれないが、さまざまなことを考えさせられ、その結果として自分が変化したと思う。調査対象となった人びとや、読者の方々にはどう映るかわからないが、私にとって本書とのかかわりは、そのようなものであった。


 本書が世に出るにあたってお世話になった方々に、また共著者の上野に、こうした機会を与えてくれたことを感謝したい。


 二〇〇三年三月

 
著者プロフィール:小熊 英二 (おぐま・えいじ)
著慶應義塾大学総合政策学部教授。
1987年東京大学農学部卒業。出版社勤務を経て、1998年東京大学教養学部総合文化研究科国際社会科学専攻大学院博士課程修了。
著書:『単一民族神話の起源』(新曜社、1995年)、『<日本人>の境界』(新曜社、1998年)、『インド日記』(新曜社、2000年)、『<民主>と<愛国>』(新曜社、2002年)、『清水幾太郎』(御茶の水書房、2003年)、『ナショナリティの脱構築』(共著、柏書房、1996年)、『知のモラル』(共著、東京大学出版会、1996年)、『世紀転換期の国際秩序と国民文化の形成』(共著、柏書房、1999年)、『異文化理解の倫理にむけて』(共著、名古屋大学出版会、2000年)、『言語帝国主義とは何か』(共著、藤原書店、2000年)、『近代日本の他者像と自画像』(共著、柏書房、2001年)、『ネイションの軌跡』(共著、新世社、2001年)、A Genealogy of ‘Japanese’ Self-images(Trans Pacific Press, Melbourne, 2002)、『<癒し>のナショナリズム』(共著、慶應義塾大学出版会、2003年)。
 

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