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バブル文化論  特別寄稿

『バブル文化論』  特別寄稿

《バブル》への郷愁と批判的距離

 

 

原 宏之
 



 

 いま小バブルと呼ばれる好景気の局面に時代はあります。また若年層の政治意識にも変化が見られます。60年代と80年代という異なるピリオドが、一度にこの時代に反復されようとしているのでしょうか。歴史は回帰する、これはほんとうのことのようです。ただし二度目は、(この場合)「形骸」として、と付け加えるべきでしょう。

 戦後最長の「経済成長」(これもひとつのイデオロギーですが)にあるといわれて、誰がその恩恵に浴し、誰が好景気のもたらす余裕を実感しているのでしょうか。「デフレ」が続き、個人消費が冷え込むなかで、《実感》(中身)をともなわない《システム》(骸骨)だけが暴走しているように思われます。80年代の「学校化社会」から「IMF=ネオリベ世界経済」まで、人―間は分断され、あらゆる中間集団は崩壊しています。この内実のない、形骸化した「バブル」が亡霊として回帰しようとしているのです。就学手当や生活保護を受ける家庭が非都市中心部に集中し、大衆の貯蓄も限りなくゼロに近づいています。なによりも精神面で、「明るい未来に走ってゆく」との展望が見られません。

それでも、亡霊であっても、歴史は回帰するのでしょう。「バブル」の経験は、そこに付随して戻って来るのでしょう。80年代と現代となにが異なり、なにが同一であるのか、これを知るためにはなによりも「歴史」を学ぶことがたいせつです。

歴史、ことに現代史は、かなり不十分にしか学ばれていません。東京裁判も知らない世代の台頭が、まさに<ポスト戦後>としての80年代の産物なのです。

このように述べてみても、サブカルチャー/メディア文化を中心に分析した本書が歴史記述を「僭称」することを嗤うひとびともいるかもしれません。わたしが主たる対象としたのは、テレビドラマや情報雑誌の言説、ストリート文化など、生活に密着した中間文化です。本書のなかで、大メディアと小共同体の拮抗にあった1980年代初頭から、いかに《中心》(文化的な山の手)と《周縁》が分離してゆき、後者が前者(「学校化社会」からネオリベラリズムまで)に呑み込まれていったのか、両者の「間」がいかに消去されたのかをバブル末期まで辿ってみました。この対象とされた時代(80年代)は、わたしが青年期の多くを費やしたリアルな時代です。しかしこうしたリアルな体験は、事後的に想い出として修正され歪曲されるものです。そこで本書のなかでは、体験と二次文献との照合で、なにが修正され、なにが欠落しているのかを逐一点検する作業に専心しました。ですから、少なくともわたしにとっては、二度とあり得ない「特権的」な《歴史》なのです。

がらんどうになった現在の社会の地点から、1980年代を回顧することから、日米関係やグローバル化、世界市場による文化支配など、切迫した問題を改めて見つめ直すことに和(あまな)うていただければ幸甚です。


著者プロフィール:著者プロフィール原 宏之(はら ひろゆき)

明治学院大学教養教育センター助教授。1969年生まれ。パリ第10大学人文学科群博士課程中退。学術修士。日本学術振興会特別研究員(東京大学)・東洋大学等非常勤講師(2001-2002)を経て、明治学院大学専任講師(2002年)。2005年より現職。 専攻は、教養(表象メディア論・言語態分析)および比較思想史。著書に『<新生>の風景』(冬弓舎)、訳書にジャック・デリダ/ベルナール・スティグレール『テレビのエコーグラフィー』(NTT出版)、『ミシェル・フーコー思考集成』(分担訳−筑摩書房)など。

 

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