第20回 「風雲? 北白川城! ―付:ふたたび休載にあたって」 を公開!
人文研探検―新京都学派の履歴書(プロフィール)―| 菊地 暁(KIKUCHI Akira)
   
 
   
 
   
 

「人文研探検―新京都学派の履歴書(プロフィール)―」
第17回

「華北交通写真」出版と写真展開催によせて

―加藤新吉、水野清一、梅原龍三郎のことども―



 

 このたび、国書刊行会より貴志俊彦・白山眞理編『京都大学人文科学研究所所蔵 華北交通写真資料集成』(2016年11月)が刊行される(以下、資料集成)[写真1]。これにあわせて、JCIIフォトサロン(東京・半蔵門)にて写真展「秘蔵写真 伝えたかった中国・華北―京都大学人文科学研究所所蔵 華北交通写真―」(2016.11.29‐12.25.)も開催される[写真2]。京大人文研の所蔵する「華北交通写真」が、ついに、陽の目を見ることになったわけだ。ここでただちに、なぜ「ついに」なのか、説明が必要になるだろう。資料集成刊行と写真展開催に微力ながら関与した一人として、その消息を簡単に記しておきたい(詳細は資料集成&写真展をぜひ御覧いただきたい)。

写真1(左):貴志俊彦・白山眞理編『京都大学人文科学研究所所蔵 華北交通写真資料集成』(2016年11月、国書刊行会)カタログ

写真2(右):JCIIフォトサロン写真展「秘蔵写真 伝えたかった中国・華北―京都大学人文科学研究所所蔵 華北交通写真―」案内状

 

 まず、「華北交通」から始めなければなるまい。華北交通株式会社。1939年、日中戦争の展開にともなって設立され、中国北部における日本軍占領地域の交通事業を一手に引き受けた、いわば満鉄(南満洲鉄道株式会社)の華北版というべき国策会社である。この華北交通、クオリティの高いグラフ雑誌『満洲グラフ』(1933‐44)を刊行した親会社の満鉄同様、グラフ雑誌『北支』(1939‐43)を刊行した。この雑誌をはじめとする同社弘報事業のために撮影・整理されたストック・フォトが「華北交通写真」である。占領下の華北を撮影した約3.5万枚のネガおよび紙焼き写真を台紙に貼った写真カードは、質量ともに充実し、他に類例を見ない貴重な写真コレクションとなっている。

 

 ここで問題になるのが、これがなぜ京大人文研に所蔵されているのか、という点である。あらかじめ結論を述べると、なんと、分からないのだ。正確にいえば、コレクションの移管経緯を示す直接的な資料が見つかっていない、ということである。人文研探検としては、きわめて忸怩たる想いだ。

 

 ただし、状況証拠から主な関係者は絞られている。ストック・フォトの行方に当事者たる『北支』編集部が無関与だったとは考えがたく、そしてその編集部に最も近かった人文研スタッフは、東方文化研究所の雲岡石窟調査(1938‐44)のメンバーをおいて他になかった。より具体的にいえば、『北支』編集長・加藤新吉と、その支援のもとに発掘調査を実施した水野清一、長廣敏雄とが、コレクション移管の主な登場人物ということになる。なお、移管は占領期(1945‐52)に行われたと推測される。現在残されている資料に基づく限り、この想定が大きく外れることは考えがたい。

 

 こうしてフォト・ストックは移管されたわけだが、不思議なことに、その後、この貴重な資料はほとんど利用されることのないまま21世紀を迎えてしまったのだ。戦争中の国策会社にまつわるコレクションであるという「負の遺産」認識が、こうした扱いに帰結したと想像されるが、残念な経緯であることは否めない。この状況が貴志俊彦氏・白山眞理氏らのプロジェクトによって打開され、今回、資料集成刊行と写真展開催という形で世に出たわけだ。本稿冒頭の「ついに」はこのような理由による。

 

 さて、今後の華北交通写真研究は、その来歴と内容の両面にわたり、さらなる深化が求められるだろう。その出発点にあたり、以下、筆者が作業中に出会った二、三のことがらを覚え書きとして記しておく。

 

 まず、加藤新吉(1896-1954)という人物を知ったことが、個人的には発見だった。福岡県三奈木村(現朝倉市)出身の加藤は、片足に障害を抱えながらも勉学に勤しみ、明治大学法科卒で満鉄入社、徐々に頭角を現し、1939年、満鉄から華北交通に出向、『北支』編集長としてその創刊から休刊までを見届ける。読書家である北京の加藤邸は豊富な蔵書にあふれ、文化人が集うサロンとなり、訪中した柳宗悦、折口信夫なども宿舎としたという。敗戦後、華北交通が解体されると、在留同胞の引揚に尽力した後、自らも郷里三奈木に帰郷、郷里の衆望を担って村長に選出され、郷土再建に奔走する途上、1954年、在任中に病没する。遺稿集『三奈木村のおいたち』(1958)は、村を担う次世代に向けて書かれた郷土史研究であり、知行合一をめざす加藤の姿勢が端的に現れている。こうしたユニークな経歴をもつ加藤の存在は、地元の顕彰を除くと、これまで十分な関心を集めなかったように見受けられる。満鉄が一級の知識人集団だったことはすでに周知のことだが、とはいえ、検討が不十分な人物もまだまだいそうだ。加藤新吉も、近代日中関係史の一側面として、もう少し脚光を浴びて良いように思う。

 

 また、雲岡調査のツートップの一人、考古学者・水野清一のご遺族にお会いできたことも幸運だった。水野清一については、本連載の第8回、11回、12回で取り上げた後、これらを加筆修正して「民俗学者・水野清一―あるいは「新しい歴史学」としての民俗学と考古学―」(2016年3月、坂野徹編『帝国を調べる:植民地フィールドワークの科学史』勁草書房)としてまとめた。本連載で取り上げなかったエピソードも収録したので、こちらもぜひ御覧いただきたい。

 

 この論集を水野清一のお孫さんにお送りしたところ、折り返しご連絡をいただき、面談の機会を得た。お孫さんには、幼少期、浄土寺(京都市左京区)にある祖父・清一の家(宮本常一も泊まった家)で民族学の蔵書を眺めたことなど、孫の目から見た清一の姿をいろいろ御教示いただいた。その上、ご自宅に残されていた祖父の研究関係の遺品をご提供いただいた。パスポート、戦前の中国都市図、手帖などが含まれており、水野の調査の様子がうかがえる貴重な資料である。なかでも、調査のために滞在期間延長を願い出た「渡支事由証明書」(昭和15年11月11日付、在北京日本帝国総領事館警察署長宛)には、加藤新吉が保証人に名を連ねており、加藤および華北交通が調査に多大な支援を与えていたことがうかがえる[写真3]。

写真3:「渡支事由証明書」
(昭和15年11月11日付、在北京日本帝国総領事館警察署長宛・一部改変)

 

 調査への支援に関して、もう一点、興味深い資料を紹介したい。水野の遺品に含まれていた、画家・梅原龍三郎の「「雲岡石窟」の出版」という推薦文(直筆と推測される)である[写真4]。梅原が「雲岡石窟学術調査後援会」に名を連ね、予算不足の折から公表の目途がたたなかった調査成果の出版を支援していたことは、旧連載第一回で指摘した通りである。そもそも、戦時中、東方文化研究所の調査成果の一環として水野清一『雲岡石佛群』(1944年、朝日新聞社)が刊行された際、その装幀を手がけたのも梅原だった。梅原は石窟訪問時に水野、長廣らの案内を受けていたはずであり、そうした縁が装幀や後援会に繋がったのだろう。

写真4:梅原龍三郎「「雲岡石窟」の出版」

 

 推薦文には1951年1月20日という日付があり、全16巻の報告の最初の1冊を世に送り出すべく、急ピッチで作業が進められていた頃の執筆とわかる(この半年後、吉田茂首相が刷り上がったばかりの報告書を抱えて渡米、サンフランシスコ講和条約に際して戦時中の日本の文化事業をアピールしたことは、これも旧連載第一回で述べた通りである)。

 

 この文章は、なんらかの形で流通し、さらなる後援者募集のために利用されたものと推測されるが、今のところ具体的経緯は未詳である。とはいえ、戦時中に雲岡石仏と対面した感動を、戦後、占領下に綴るこの文章は、華北交通写真同様、近代日中関係史の一側面を伝えているだろう。資料集成刊行と写真集開催を記念して、以下、その末尾を掲げておく。

 

 私の驚嘆は純粋に造形美術の観点からである。天を衝き地を抜く旋律、豊満なる肉づき、何と云ふ盛なる生気か、石仏群は偉大なる人類群である。終戦後一時外地の日本軍の悪業と無道のみを論難することが大流行した時に私は大同守備の日本軍が戦前大に行れた仏頭の盗難、石窟荒廃から完全にこれを守つた善行は著しき例外としても挙らるべきであると思つた。水野長廣両兄の調査研究の事業も此期間の産物である。両兄の努力は深甚の敬意と感謝を持つ、そして此廣汎なる調査の成果が早く、廣く世界に、そして後世に伝へられるものとなる事を衷心祈った。機運熟して此大刊行物が近く発桿される事を非常に喜ぶ。見本刷りが既に頗る見事である。軟かで美しい石の触感さえも遺憾なく表れてゐる。此上は十五巻全部が渋滞なく可成速に出揃う事を希ふ事切である。

 



(本連載は2017年4月ごろ本格的に再開いたします。しばらくお待ちください。 )


 
     
 
本書の詳細
   
   
 

 桑原武夫、貝塚茂樹、今西錦司、梅棹忠夫ら、独自の作法で戦後の論壇・アカデミズムに異彩を放った研究者たち。新京都学派と呼ばれた彼らの拠点こそ、京都大学人文科学研究所(人文研)でした。気鋭の民俗学者が人文研の歴史に深く分け入り、京都盆地の、そしてそこから世界に広がる知のエコロジーを読み解きます。
 伝説的な雑誌『10+1』INAX出版)誌上で始められ、その休刊とともに中断していた連載を、ここに再開します。屈曲蛇行する探検の道のりに、どうぞお付き合いください。

   
 
   
著者・訳者略歴
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菊地 暁
(KIKUCHI Akira)

京都大学人文科学研究所助教、文学博士。民俗学専攻。
〔著書〕 2001『柳田国男と民俗学の近代―奥能登のアエノコトの二十世紀―』吉川弘文館、2005(編)『身体論のすすめ』丸善。
〔論文〕2012「〈ことばの聖〉二人―新村出と柳田国男―」(横山俊夫編『ことばの力―あらたな文明を求めて―』京都大学学術出版会)、 2010「智城の事情―近代日本仏教と植民地朝鮮人類学―」 (坂野徹・愼蒼健編『帝国の視角/死角 〈昭和期〉日本の知とメディア』青弓社)、2008「京大国史の「民俗学」時代―西田直二郎、その〈文化史学〉の魅力と無力―」(丸山宏・伊従勉・高木博志編『近代京都研究』思文閣出版)、2004「距離感―民俗写真家・芳賀日出男の軌跡と方法―」(『人文学報』91)など(詳しくは、ここを参照)。

参考情報:「INAX出版」ウェブサイトはこちら

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