第20回 「風雲? 北白川城! ―付:ふたたび休載にあたって」 を公開!
人文研探検―新京都学派の履歴書(プロフィール)―| 菊地 暁(KIKUCHI Akira)
   
 
   
 
   
 

「人文研探検―新京都学派の履歴書(プロフィール)―」
第16回

ふたたび「方法としての京都」について
―あるいは、「中休み」のための覚え書き―

 

慶應義塾大学出版会のウェブ連載ページがリニューアルされることとなった。ちょうど良い機会なので、充電のため「中休み」を頂戴させていただくこととした。読者の皆さまにはしばらくお待ちいただくこととなるが、ご寛恕いただきたい。ともあれ、「中休み」後の連載再開に向けて、「人文研探険」の方向性をいま一度確認しておこう。

 

本連載はどうにかこうにか15回を終えたわけだが、依然として「隔靴掻痒」というか「二階から目薬」というか「本丸攻略」とはほど遠い状況にある。そう言わざるをえないのが現状だ。戦後の人文学界に鮮烈なインパクトを与えたフランス研究を取り上げたこともなければ、脈々たる東洋学の伝統を真正面に論じたこともない。一つ一つのトピックに無駄があったとは感じていないのだが、一つ書くごとに新たな問題が三つも四つも増えていくような具合であり、この調子でやっていくと何時までたっても終わらないことになる。もともと、筆者の知識と能力でカバーできるテーマでもなく、また、着地点が見えて始めた作業でもないのだから(だから「探険」なのだ)、想定内といえば想定内だが、さすがにマズいという気もし始めている。攻め方を整理・工夫する必要はありそうだ。乞御助言。

 

もう一つ気になっているのは、文章的な問題であり、これには「ウェブ連載」という媒体の特性が絡んでいる。「ウェブ」であるということは、すなわち、紙媒体ほど字数制限がタイトではないということで、結果として、文章が散漫になりがちな傾向を否めない。「連載」であるということは、先行する叙述を受けて叙述を重ね作品を紡いでいくという作業のはずだが、同時に、各回を一個の独立した作品として受けとめる読者も無視することはできず、結果として、情報提示の順序や分量にアンバランスな点がないではない。著者の修行不足といわれればその通りなのだが、文体の設定、つまり、読者像の予想に、思いのほか手間取り、現在に至っている。結局は、自分が面白い、大切だと信じられることを語り続けるしかないのだろうが、そのあたりの腹の括り方の甘さが、修行不足の所以だろう。精進せねばなるまい。

 

といった具合に反省点はいくらもあるのだが、やりたいことそれ自体は我ながら意外なほど変わりがない。ウェブ連載開始にあたって、「連載再開にあたって―あるいは、方法としての京都―」という文章を執筆した。そこでは、「京大神話」や「京都オリエンタリズム」の再生産をするつもりは全くなく(ここはとてもよく誤解されてしまう点である)、「日本の近代」の「複数性」をきちんと認識するために、いいかえれば、「日本の近代」を単一で均質なものとして「東京」のそれに代表させて怪しまない思考もしくは態度から徹底的に距離を置くために、便宜的戦略として「京都」の定点観測を試みる旨を宣言した。この方向性じたいは、今も全く反省するところがない。むしろ、東日本大震災以降、「地方の時代」というフレーズが空回りし、実のところ、オリンピックを目標に東京一極集中が際限なく推し進められつつある現状を見るにつけ、「方法としての京都」がこれまで以上に必要であるとの感を深くしている。

 

ここで極端な予想をすると、自然災害なり経済恐慌なり政治動乱なり、何らかの原因で「東京」が「停止」する事態を、私たちはそう遠くない将来体験することになる。それが数十分で済むのか数十年にわたるのかは別にして。グローバルにネットワーク化された市場経済も、高度にシステム化された科学技術も、それらがもたらす数多の果実にもかかわらず、砂上の楼閣ともいうべき一面を免れることはできない。そしてそのとき、「東京」に頼らないオルタナティブな何かを、私たちは持ち得ているだろうか。ミニマルなバックアップが用意されなければならない。「京都」がそれである必要はまったくないし、そもそも「京都」がそれに値するか否かも分からないが、少なくとも、それを構想する一助にはなるだろう。いや、そうしなければならない。「方法としての京都」を通じて21世紀の混迷をサヴァイヴする心構えを用意すること。それが本連載がはるかに見据えるゴールである。大言壮語ではあるが、見据えるぐらいは許されよう。

 

そういえば、本連載に対して一番多く頂戴した質問は、「京大人文研の連載をなぜ慶應義塾大学出版会でやっているのか」である。とても不思議に見えるのだろう。じつは私も不思議だ。私も答えられない。さしあたり、編集担当者のモノ好きないし御慈悲という他はあるまい。ありがたいことである。このありがたさが何時まで続くのか、それは分からない。筆者としては、連載再開に備え、これからも必死にもがき続けるだけである。


 


(本連載は1年ほどの休載を予定しております。再開までしばらくお待ちください。
なお、当社のウェブ連載を拡張し、ページを一新いたします。)


 
     
 
本書の詳細
   
   
 

 桑原武夫、貝塚茂樹、今西錦司、梅棹忠夫ら、独自の作法で戦後の論壇・アカデミズムに異彩を放った研究者たち。新京都学派と呼ばれた彼らの拠点こそ、京都大学人文科学研究所(人文研)でした。気鋭の民俗学者が人文研の歴史に深く分け入り、京都盆地の、そしてそこから世界に広がる知のエコロジーを読み解きます。
 伝説的な雑誌『10+1』INAX出版)誌上で始められ、その休刊とともに中断していた連載を、ここに再開します。屈曲蛇行する探検の道のりに、どうぞお付き合いください。

   
 
   
著者・訳者略歴
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菊地 暁
(KIKUCHI Akira)

京都大学人文科学研究所助教、文学博士。民俗学専攻。
〔著書〕 2001『柳田国男と民俗学の近代―奥能登のアエノコトの二十世紀―』吉川弘文館、2005(編)『身体論のすすめ』丸善。
〔論文〕2012「〈ことばの聖〉二人―新村出と柳田国男―」(横山俊夫編『ことばの力―あらたな文明を求めて―』京都大学学術出版会)、 2010「智城の事情―近代日本仏教と植民地朝鮮人類学―」 (坂野徹・愼蒼健編『帝国の視角/死角 〈昭和期〉日本の知とメディア』青弓社)、2008「京大国史の「民俗学」時代―西田直二郎、その〈文化史学〉の魅力と無力―」(丸山宏・伊従勉・高木博志編『近代京都研究』思文閣出版)、2004「距離感―民俗写真家・芳賀日出男の軌跡と方法―」(『人文学報』91)など(詳しくは、ここを参照)。

参考情報:「INAX出版」ウェブサイトはこちら

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