第20回 「風雲? 北白川城! ―付:ふたたび休載にあたって」 を公開!
人文研探検―新京都学派の履歴書(プロフィール)―| 菊地 暁(KIKUCHI Akira)
   
 
   
 
   
 

「人文研探検―新京都学派の履歴書(プロフィール)―」
第13回

『遠野物語』と人文研
―内藤湖南旧蔵・初版本『遠野物語』を機縁として―


 その一冊を手にして私は驚喜した。限定350部の稀覯書、初版本『遠野物語』(1910)を人文研の書庫に見いだしたのだ。しかも扉には「三百五十部之内 第三三八号」という号数とともに「内藤先生に奉る 柳田國男」という書込。紛れもない柳田の肉筆である。

 

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 この初版本『遠野物語』が含まれる特殊コレクション「内藤U」について説明が必要だろう。「内藤U」は、京大東洋史の「始祖」内藤湖南(1866-1934)の息子である東洋史家・内藤戊申(1908-89)の旧蔵書であり、戊申の遺族により人文研に寄贈され、近年、整理を終えて公開されたものである。人文研には既に内藤湖南旧蔵書が「内藤文庫」として所蔵されていたため、「内藤U」というコレクション名に落ち着いた。「内藤U」は戊申が湖南より引き継いだ蔵書を含み、初版本『遠野物語』もその一冊と思われる。扉以外には書込等の痕跡はなく、これ以上の情報を読み取ることは困難だ。とはいえ、秋田県に生まれたことから十和田湖にちなんで「湖南」と号した人物に、東北の片田舎を描くこの本がなにがしかの感慨を与えずにおかなかった、と想像するぐらいは許されよう。

 

  この「発見」に気を良くした私は、初版本『遠野物語』をめぐる旅をしようと思いついた。これについては『遠野物語』研究の金字塔ともいうべき石井正己『遠野物語の誕生』(2000)があり、その第[章第4節「『遠野物語』の「購読者名簿」」が、1号・佐々木喜善、2号・柳田国男と続く初版本所蔵者の再構成を試みている。私の作業はその「落ち穂拾い」に過ぎないのだが、新京都学派周辺にさまざまな『遠野物語』との出会いがあったことを再確認できたので、以下、その概要を報告してみよう。

 

*     *

 

 今回、私が調査対象としたのは、CiNiiの検索でヒットする初版本9冊のうち、関西に所蔵される6冊*1および、たまたま検索して確認できた京都府立図書館所蔵本、大阪府立中之島図書館所蔵本の合計8冊である。扉に記された号数順に並べると下記のようになる。

 

  101   京都府立図書館*2
  103   京都工芸繊維大学附属図書館*3
  107   京都大学経済学部図書館(河上文庫)
  109   大阪大学附属図書館
  170   天理大学附属天理図書館*4
  267   佛教大学図書館
  306   大阪府立中之島図書館*5
  338   京都大学人文科学研究所図書室(内藤U)

 

 このうち、現在の所蔵機関に収められる以前の痕跡を遺す107、109、267に解説を加えていこう。

 107、京大に所蔵されたもう一つの初版本は、『貧乏物語』(1917)で有名な経済学部教授・河上肇(1879-1946)の旧蔵書コレクション「河上文庫」の一冊である。書込等は特に見られず、「京都帝国大学法科大学 経済研究室 大正貳年十二月廿日」の印がある*6。河上は柳田の東京帝大法科政治学科での後輩にあたり、柳田の講義録『農業政策学』(1909)にも河上『日本尊農論』(1905)への言及がある。また、柳田『北国紀行』(1948)により、1909年7月7日、1911年7月19日、北陸旅行の帰途、京都に立ち寄った柳田が河上を訪問していることが確認される。なお、1911年の記事には「内藤湖南氏と河上肇君とを訪ふ」とあり*7、二冊の京大所蔵初版本はこの時の寄贈かと一瞬想像したが、印や書込を見る限りこれは誤りのようだ*8

 

 109の大阪大学附属図書館蔵本は、扉に「本庄文庫」の印があり、河上と同じく京大経済学部教授だった経済史家・本庄栄治郎(1888-1973)の旧蔵書である。1933年、本庄が中心となって日本経済史研究所が設立されると(京大農学部に隣接した研究所屋が現存する)、本庄は自らの蔵書を研究所に寄贈。戦後、新制大阪大学の経済学部発足にあたり研究所の旧蔵書が寄贈され、本庄旧蔵『遠野物語』も阪大に収められることとなる。ちなみに本庄は、京都帝国大学人文科学研究所(1939年設立のいわゆる「旧人文」)の設立準備委員ならびに協議員を務めるなど人文研とも縁浅からぬ人物だ。

 

 267の佛教大学図書館所蔵本は、裏表紙見返しに寄贈者印があり、京大国史学教授・西田直二郎(1886-1964)の養子であり佛教大学教授を務めた日本史家・西田圓我(1935-99)の遺族による寄贈図書であることが分かる。『日本文化史序説』(1932)の著者にして「京大系民俗学」のキーパーソンである西田については本連載でもたびたび言及してきたが、柳田とも早くから交流があったようで、『郷土研究』3巻3号(1915)掲載の柳田「風呂の起源」には、「西田直次郎[ママ]氏話に、京都では近頃まで賤民の湯屋を業とする者があつた」と西田に言及している*9。その西田の旧蔵『遠野物語』には書込があり、「田村将軍征討」に関する第24話、安倍貞任の伝説である第65〜68話の冒頭、そして第68話の注記「ニタカヒはアイヌ語のニタト即ち湿地より出しなるべし」に、それぞれ〇印が付されている。これらが西田直二郎本人の書込であると推測すれば、西田は蝦夷征伐に関する史料を『遠野物語』に見いだそうとしたのかもしれない。

 

*    *

 

 以上が現存の確認されている初版本だが、新京都学派の周辺にはこれ以外の初版本もあったようだ。今西錦司は『自然学の展開』(1987)のなかで次のように述べている。

 

 三高時代、柳田さんの『遠野物語』を古本で買いました。番号入りで三十何番とかいう本やけどね。あれはちょっと大げさに言うたら暗記するぐらい読んだよ。これが一番ええね。[中略]文語体がええね。

 それから『雪国の春』『山の人生』という本があったな。これもええ本です。柳田さん自身にも大学時代にお目にかかっていますけれど、なんかちょっととりつきにくいおっさんでね(笑)。農村調査でも紋付、袴で行かはったという人やさかいな。僕らはもう山へ汚ない服で登ってたからね。

 ちょっとそこはちがうんだよ。それで山村へ入ったら、『遠野物語』に出てくるような面白い話がいっぱいあるかと思うたら、そうやなかった。あれはやっぱり遠野という都会で生まれてきたもんなんです。佐々木という人がおったんであれだけ集まったんやね。風来坊でちょっと一晩泊りで出かけたってね、なかなかそんなもんは集まれへん。柳田さんの弟子の宮本常一という人はよく足で集めてはってんね*10

 

 今西は三高時代(1921-25)、古本で30番台の初版本を入手し、暗記するほど読んだというのだ。ちなみに、大学時代に柳田に会ったというのは、1934年5月28日、西田直二郎の主催する京大民俗学会で柳田が「山村調査」(1934〜36年度)について講演した際のこと。これに触発されたのか、今西は山村調査のハンドブック『採集手帖』を購入している*11

 

 さらに、『自然学の提唱』(1984)では「人間の学問に対して、何か興味を呼び起こす動機になったものがあるとすれば、やっぱり柳田国男さんでしょうな」と述べ*12、「役に立った本」(1967)で「山へ登るのなら、せめて柳田国男の『山の人生』ぐらいは、読んでおくべきだ[中略]。『遠野物語』もまたあわせて読むべきであろう」と述べるなど*13、今西は柳田への傾倒をたびたび口にしている。なお、今西の旧蔵書は彼が学長を務めた岐阜大学に「今西錦司文庫」として収められているが、初版本『遠野物語』も『採集手帖』もそこにはない*14

 

 こうして見ると、意外に多くの初版本『遠野物語』が京大周辺にあったことになる。京都府立図書館は左京区岡崎にあり、京都工芸繊維大学の前身である京都高等工芸学校が現在の京大西部キャンパスにあったことを考えると(人文研旧本館もその跡地にあたる)、京大周辺における初版本の「分布密度」は全国屈指のはずだ。

 

 そのために――といっていいだろう――『遠野物語』再評価のきっかけが京都から生まれることとなる。桑原武夫「遠野物語から」(1937)である。1935年、長らく稀覯本だった『遠野物語』の増補版が郷土研究社より刊行されると、桑原は『文学界』に「遠野物語から」を寄稿、『遠野物語』論のアンソロジー、石内徹編『柳田国男『遠野物語』作品論集成』(1996)でも「桑原武夫が、はじめて正面から『遠野物語』を「文学書である」と喝破し、高い評価を下した。慧眼というべきである」と、その先見性が称賛され、岩波文庫『遠野物語・山の人生』(1976)にも桑原による「解説」と併せて掲載されている*15。このなかで桑原は、「私は十数年前、仮綴の初版本を友人にかりて耽読したことがある。[…]柳田国男という偉大な文人の存在を初めて教わったのは、この書物によってであった」(pp. 308-309)と述べている。この「友人」が今西錦司であることはいうまでもない。つまり、今西の初版本が、桑原と『遠野物語』を結びつけ、後にその再評価を生みだしたのだ。

 

 ここで若干書誌的な解説を加えておこう。というのは、岩波文庫の解説に「遠野物語から」(1937年7月)は「これは柳田さんにたいそう喜んでいただき、お近づきになる機縁ともなった」とあるが(p.317)、柳田の逝去(1962年8月)の直後に発表された「柳田さんの一面」(1962年10月)には、「柳田国男先生にはじめてお目にかかったのは昭和十二年、私の洋行の直前であった」とあり*16、そして桑原の2年間にわたるフランス留学への出発は1937年4月*17。このままでは柳田との面会直後に洋行し、その後に『文学界』7月号が出るというおかしな順序になってしまうのだ。

 

 じつは、「遠野物語から」には「遠野物語を読んで」(1936年10月)というプロトタイプが存在する。彰国社刊『四季』1936年11月号(刊行は10月)に掲載された「遠野物語を読んで」は、分量的には「『遠野物語』から」より短いが、趣旨は同じであり、文章もしばしば一致している。察するに、この『四季』が柳田と桑原を結ぶきっかけとなり、桑原の柳田訪問が実現、これと並行して「遠野物語を読んで」の増補版が書かれ、桑原出国後の『文学界』に掲載された、ということだったのだろう。

 

 それはさておき、「遠野物語から」を読むと、改めて、その柳田理解の的確さが感じられる。「この物語の編者が簡古な文語体をして内容と完全に合致せしめ、一つ一つの話を素朴でしかも気品の高い短章としたことは、卓見であり手腕であった」(p. 310)という文章技巧の評価はもちろんのこと、柳田の「方法序説」ともいうべき『民間伝承論』(1934)を、同書を収めた共立社『現代史学大系』の「叢書中の圧巻」(p. 316)と述べ*18、柳田を「わが国文化科学の領域における、最も見識にとんだ実証的な学者の一人」(p. 316)とし、「氏の目標はつねに普遍的な人間学にある」(p. 318)とするあたり、簡にして要を得たというほかはない。柳田がこの著者との交流を望んだことも至極当然という気にさせられる。

 

 岩波文庫「解説」も同様だ。「ここにおいて、彼の養子縁組みと抒情詩否定とは深くつらなっているのではないか、という憶測を私は禁じられなくなる。[中略]私は、父母の死による寂しさと養子縁組みを直結するのではなく、その間に女性という中間項をおき、それの表現が抒情詩であったと考えるべきではないかと思う」という若き国男の恋愛をめぐる指摘が鋭い(p.327)。じっさい、その後の田山花袋との往復書簡の公刊(1991)により、岡谷公二『殺された詩人―柳田国男の恋と学問―』(1996)によって詳細が解き明かされていったわけで、桑原の慧眼に、改めて畏れ入らないわけにはいかないだろう。

 

*    *

 

 ところで、「遠野物語から」は桑原の第一評論集『事実と創作』(1943)に収められる。これを再録した『桑原武夫集』第1巻(1980)の「自跋」には刊行後のいきさつが記されている。

 

 この本が出たとき、目下流行の有名人ばかりをほめている、とひやかした人があった。それを読んで私はひとりほくそ笑んでいた。スタンダールは私たちが反訳するまでどれだけ日本で知られていたか。アラン、柳田国男、富岡鉄斎について、どれだけの評論家が取り上げていたか。流行させた原動力の一パーセントくらいは私から生まれたと思ったからだ*19

 

 この「ひやかし」は、じつは活字化されていた。戦時中、東方文化研究所スタッフを中心に組織された「大東亜学術協会」により雑誌『ひのもと』『学藝』『学海』が刊行されていたことは本連載第11回でふれたが、その『学藝』1944年1月号の書評欄「新刊是々非々」がそれである。そしてその筆者は、なんと内藤湖南の息子の戊申だった。

 

 ところがヴァレリーのようなしたゝか者でもほんとの専門以外の話になると随分いい加減なことをいふ場合があるものだ。悪い事だが私はさういふ弱味につけこんで人を弥次り倒すことをもつて無上の快楽とする癖がある。桑原さんのこの本は近来私の弥次り欲を最も刺激した本の一つだつた。つまり、条件が揃つてゐるのである。とり上げられたテーマが夫々頃合の興味と通俗さを具へてゐる。(スタンダール・歴史小説・鉄斎・柳田國男!)*20

 

 『事実と創作』が取り上げた作家・作品をことごとく「頃合いの興味と通俗さ」として、取りつく島もなく切り捨てる。以下、同書における生半可な啓蒙を執拗にあげつらい、最後に「結局この本は年齢二十五歳以下の青年の為に書かれたものではないかと思ふ。[…]ところで一国の文化を動かすものは何といつても三十歳以上の人間が多いのだから桑原さんがこの次にはさういふ人間相手の本も書かれることを願つて止まない次第である」と書評を結んでいる。正直なところ、何が内藤にこれを書かせたのかといぶかるようなレビューである*21

 

 こうした書評に甘んじる桑原ではなかった。『学藝』1944年3月号に「『新刊是々非々』について―内藤君の拙著批評に関して―」を寄せ、内藤書評が書評としての内実を持たない私的感想に過ぎないと、これまた徹底的に反駁する。

 

 東洋史学者たる内藤氏の目標としたのは恐らく三国志や鉄斎であらう。ところで「弱みにつけこんで人を弥次り倒す」ことに「無常の快楽」を感じられるのは同氏の自由だが、仲間うちの雑談ならいざ知らず、ブック・レヴイユーとなるためには、その弥次りが的確に読者に分からねばならない。内藤氏が快楽を観じたといふ私的事実のみでは何の意味もない。「随分いゝ加減なこと」があったら、それを指摘してこそ意味がある。しかしたとへ多分の間違ひがあらうとも、かつて日本語で『通俗三国志』について私よりも面白い評論が書かれてゐるであらうか。もしなければ、それこそ日本文化を少しでも高めるゆえんとなり得るのではないか(日本文化を高めるといつたことを弥次の材料とする態度を、私は甚だ好まない)そして拙文を読んで『三国志』を読んだ三十歳以上の人を、私は数人知つてゐる。私は内藤氏の忠言にも拘らず、今後もかゝる文章を書くことを止めぬであらう*22

 

 内藤湖南と桑原隲蔵、京大東洋史の大先達たる二人の息子たちの誌上論争はこれで終わる。私の目にはどう読んでも桑原のほうが真っ当に見えるし、おそらく当時にあってもそう読めただろう。そして、桑原はその言葉通り、その後も「かゝる文章」を書き続け、戦後論壇の寵児に躍り出ていく。それを内藤はどう思ったか。その思いを知ってか知らずか、内藤湖南旧蔵・初版本『遠野物語』は人文研に収められている。

 

 

 

 

付記:「『遠野物語』と人文研」と題した本稿は、柳田そして桑原に導かれて遠野に赴いた加藤秀俊と米山俊直の共著『北上の文化―新・遠野物語―』(1963)にも当然ふれなければならないのだが、紙数も大幅に超過したので割愛する。今後の課題とすることをお許し願いたい。

 

 

(次回2015年4月に掲載予定です。ご期待ください。)




   
*1   残りの3冊は東北大学附属図書館、東北芸術工科大学図書館、東京大学総合図書館所蔵。
   
*2   扉に「購入43.7.22」の印あり。明治43年の購入か。表紙に英字筆記体「yupa」「babl」の落書きあり。
   
*3   献辞「此書を外国に在る人々に呈す」の前頁に「京都高等工芸学校図書課 8545」の印あり。京都高等工芸学校(1902設立)は京都工芸繊維大学(1949設立)の前身の一つ。
   
*4   扉に「天理図書館 昭和十五・十一・十八」の印あり。貴重書のため本書の中身は未見。扉のみコピーで確認した。
   
*5   扉に「大阪府立図書館 明治四十四年六月九日」の印あり。
   
*6   この時、河上は西欧留学中であり、また、石井正己の推定では1910年12月には初版本はほぼ売り切れたと推測され、河上が初版本をいかなる経緯で入手したかは不明である。
   
*7   柳田国男1999『柳田国男全集』18、 筑摩書房、 p. 118
   
*8   引用した1911年7月19日の記事の続きは、「桑木君の家に帰つて見ると、新村君が来て待つて居たり」とある。「桑木君」すなわち哲学者・桑木厳翼は柳田から第40号を寄贈されていたことが石井正己により確認されている。こうなると、新村出も当然所持していたのではないかと思われるが、残念ながら、今のところ、新村旧蔵書中に初版本『遠野物語』を確認できていない。
   
*9   柳田国男1915.05「風呂の起源」『郷土研究』3/3、p. 152
   
*10   今西錦司1993(初出1987)『今西錦司全集』13、 講談社、pp. 291-292
   
*11   京都大学総合博物館に残された「民俗調査会」資料により確認。拙稿2005「主な登場人物―京都で柳田国男と民俗学を考えてみる―」(『柳田国男研究論集』4)参照。
   
*12   今西錦司1993(初出1984)『今西錦司全集』13、 講談社、p. 3
   
*13   今西錦司1979『山の随筆』旺文社文庫、p. 197
   
*14   今西錦司1993(初出1984)『今西錦司全集』13、 講談社、p. 3
   
*15   この際、「遠野物語から」は「『遠野物語』から」に解題され、『桑原武夫集』1(1980)には「『遠野物語』から」として収められている。
   
*16   桑原武夫1980『桑原武夫集』6 、岩波書店、p. 362
   
*17   桑原武夫1981『桑原武夫集』10 、岩波書店、p. 486
   
*18   『民間伝承論』を『現代史学大系』15冊との対比で位置付けたのは、管見では桑原ただ一人である。
   
*19   桑原武夫1980「自跋」『桑原武夫集』1、岩波書店、p. 644
   
*20   『学藝』2/1、 p. 47
   
*21   内藤戊申旧蔵の『事実と創作』(1943)が人文研図書室「内藤U」に収められている。書込等なし。
   
*22   『学藝』2/3、 p. 44
   
   
 

 

 
     
 
本書の詳細
   
   
 

 桑原武夫、貝塚茂樹、今西錦司、梅棹忠夫ら、独自の作法で戦後の論壇・アカデミズムに異彩を放った研究者たち。新京都学派と呼ばれた彼らの拠点こそ、京都大学人文科学研究所(人文研)でした。気鋭の民俗学者が人文研の歴史に深く分け入り、京都盆地の、そしてそこから世界に広がる知のエコロジーを読み解きます。
 伝説的な雑誌『10+1』INAX出版)誌上で始められ、その休刊とともに中断していた連載を、ここに再開します。屈曲蛇行する探検の道のりに、どうぞお付き合いください。

   
 
   
著者・訳者略歴
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菊地 暁
(KIKUCHI Akira)

京都大学人文科学研究所助教、文学博士。民俗学専攻。
〔著書〕 2001『柳田国男と民俗学の近代―奥能登のアエノコトの二十世紀―』吉川弘文館、2005(編)『身体論のすすめ』丸善。
〔論文〕2012「〈ことばの聖〉二人―新村出と柳田国男―」(横山俊夫編『ことばの力―あらたな文明を求めて―』京都大学学術出版会)、 2010「智城の事情―近代日本仏教と植民地朝鮮人類学―」 (坂野徹・愼蒼健編『帝国の視角/死角 〈昭和期〉日本の知とメディア』青弓社)、2008「京大国史の「民俗学」時代―西田直二郎、その〈文化史学〉の魅力と無力―」(丸山宏・伊従勉・高木博志編『近代京都研究』思文閣出版)、2004「距離感―民俗写真家・芳賀日出男の軌跡と方法―」(『人文学報』91)など(詳しくは、ここを参照)。

参考情報:「INAX出版」ウェブサイトはこちら

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