第20回 「風雲? 北白川城! ―付:ふたたび休載にあたって」 を公開!
人文研探検―新京都学派の履歴書(プロフィール)―| 菊地 暁(KIKUCHI Akira)
   
 
   
 
   
 

「人文研探検―新京都学派の履歴書(プロフィール)―」
第8回

東方部の「折口フアン」たち
―あるいは、「新しい歴史学」としての考古学とミンゾク学―


 

 京大人文研に「熱烈な折口フアン」が多いことは、東洋史家・礪波護がすでに指摘しているところである*1。東洋史学の貝塚茂樹(1904-87)、中国文学の平岡武夫(1909-95)、歴史地理学の森鹿三(1906-80)、考古学の水野清一(1905-71)、専門を異にする面々が、なぜかそれぞれ、折口信夫(1887-1953)に関心を抱いていたのだ。

 

 貝塚の場合は、大学生の頃、何気なくスイッチをつけたラジオがきっかけだった。「翁の発生」を説き語る折口の言葉を「息もつがずに聞き入るうちに、知らぬまに三十分の講演がおわった」*2。一緒に聞いていた弟・秀樹(湯川秀樹 1907-81)ともども、大いに感銘を受けたという。この折口なる学者が何者であるか、当時の貝塚はまるで知らなかったのだが、たまたま父・小川琢治(1870-1941)のもとに届けられる雑誌『民族』に「水の女」(1927)など、折口の論考を見いだすことになる。「読んで見ると、どれも素晴らしい。私はすっかりこの未知の学者のファンになって、雑誌へ出る端から先生の論文を読みはじめた」*3

 

 この頃、水野清一や森鹿三も貝塚と同様に折口学に傾倒、「「水の女」などは、いつもわれらの一党のもっとも愛読した論文で、いつも話題になったものである」という*4。その後、折口が京大で集中講義した際(1939年)、貝塚は勤務先の東方文化研究所から通いつめ、その言霊のごとき講説に魅了されている。「壇上の先生の口から、まるで蠶が絲をはくように、とめどもなく引き出されてくる、あやしい連想の数々にたゞ驚異の眼をみはるばかりだった」*5

 

 ところで、折口と京大の接点となったのが国史学教授・西田直二郎(1886-1964)である。貝塚らが折口に関心を持ち始めていた昭和初年、西田も欧州帰り、新進気鋭の少壮教授として、歴史学に「文化史学」の新風を吹き込みつつあった*6。その西田による折口説の紹介に、受講生らが敏感に反応したのも無理からぬことだろう。その一人、森鹿三は、「西田先生が親しみをもって話されたので、さらに聞きただした」。すると、折口と西田が天王寺中学の同窓生であること、歌人・釈迢空とは折口その人であることなどを教えられたのである*7

 

 折口、西田の同級には、国文学者・武田祐吉(1886-1958)、歴史家・岩橋小弥太(1885-1978)などがおり、彼らは図書館で記紀や万葉集を読み漁り、休日には南河内や大和の史跡を訪れていた。作家としての折口の代表作『死者の書』(1939-43)には、難波から二上山を経て飛鳥へ至る道のりの細やかな描写がみられるが、これは西田にとってはまるで中学時代の「旅の思い出の記録」だという*8。こうした折口と西田の旧交が機縁となり、折口が西田邸での私的サークル「金曜会」に招かれ、さらに、京大での集中講義の実現に至ったのだ。

 

 この「金曜会」が発展的解消し、1927(昭和2)年12月、京都帝国大学民俗学談話会が設立されることになる*9。そしてその中心人物が水野清一だった。長廣敏雄(1905-90)との共著『雲岡石窟』(1951-56)が我が国の考古学界において画期的だったのみならず、戦後、日本が国際社会に復帰するにあたり少なからぬ意味を持ったことは、すでに旧連載第1回で指摘した。その著者である中国考古学の第一人者・水野は、若き日、「ミンゾク学者」でもあったのだ*10

 

 ここで、水野の経歴を確認しておこう*11。1905(明治38)年、神戸市兵庫算所町(現兵庫区兵庫町)に水野清一は誕生する。故郷について、彼は以下のように述べている。

 

わたくしのうまれ、そだったのは神戸市の兵庫側で、町のなかではあったけれども、「村」とよばれていた。[中略]うちでは芝居ずきの祖母がいて、いつも子もりかたがた孫どもをつれて芝居見物をした。それで芝居には、そうとうなじんでいたとはいうものの、子どものこととて、これというまとまった印象はない。[中略]しかし、それからは世のなかもかわったというのか、このような陰気な狂言は、すっかりはやらない時代になってしまった。そうして二十年ちかくたって、忽焉と出あったのが、おもいもかけぬ[折口]先生の「餓饑阿弥蘇生譚」であった。/わたくしにとってそれは、大きな啓示であった。筋書を知らされて、心のすみにあったしこりのとりはらわれたのはここちよかったが、こんな身ぢかな、たわいないことが、古代人の信仰にふかくねざし、生活の古典であることをおしえられたのには、ふかい感動を覚えた*12

 

 こうした「村」体験が、ミンゾク学への機縁となっていることがうかがえる。じっさい、「水野清一著作目録」によれば*13、水野の最初の学術的著作は『民族』3巻3号に掲載された「各地俗信比較 神戸市兵庫方面」(1928)であり、郷里における俗信のミンゾク学的報告だった。

 

 ところで、水野の父・寅太(八百寅)は一代で産を成した青物商であり、その唯一の男児として家業を継ぐことを運命づけられていたのが清一である*14。高等小学校を卒業するとすぐに家業を手伝わされた水野にとって、「二代目八百寅」から逃れることは並大抵のことではなかった。そこで彼が選んだ道が「専検合格」、すなわち試験により中学五年修了の資格を得ることだった。中学に通っていても相当の努力を要する修了資格を、独学で獲得しようとしたのだ。この時、水野を助けたのが、近所に住む二年後輩の少年、後に京大の同窓、人文研の同僚となる歴史地理学者・森鹿三だった。神戸一中に進学した森に、水野は中学での勉強について教えを請い、ときには銭湯で落ち合って勉学に励むこともあったという。その甲斐あって、水野は無事、専検合格する。

 

 一方、森は中学四年で第三高等学校に合格(1923年)。すると水野は、引き続き高校の課程について森の助力を仰ぐことになる。1924(大正13)年には、京都帝国大学の東洋史(このとき、考古学「専攻」はまだなかった)に「選科生」(高校卒業資格のない学生)として入学、「スクーリングとしては小学校から一躍して大学に入ったことになる」*15。岡崎(京大・三高の所在地・吉田の南に位置する町)の農家に下宿した水野は、なおも勉学に励み、1928(昭和3)年2月、「高等学校文科卒業学力検定試験」に合格、同年4月、「選科」から入った京大を「正科」で卒業する。結局、通常なら高校3年、大学3年の合計6年になる課程を、わずか4年で卒業したわけだ。

 

 イレギュラーな学歴。それを可能にしたのは、水野の並々ならぬ学問への情熱、そしてそれを実現する類い稀な粘り強さだった。水野を評する人が一様に口をそろえる目標実現への実行力、諦めを知らない粘り強さは、こうした若き日の苦学によって鍛え抜かれたものであり、やがてそれは、雲岡石窟からイラン・アフガニスタン・パキスタン調査へと続くフィールドサーベイにおいて、遺憾なく発揮されていくこととなる。

 

 少し先走りすぎた。ここで再び貝塚の言葉を借り、水野とミンゾク学に話を戻そう。

 

当時の京都の文学部では、西田幾多郎博士の影響もあって、学問の方法論が盛んに論議されていた。京大文学部史学科の陳列館の地下の溜り場の炉を囲んで、絶えず歴史学とは何ぞや、文化史とは何か、という方法論の議論が交はされていた。国史の肥後和男・山根徳太郎・池田源太などとともに、論争を執拗に交えられていたのは水野君であった。こういう連中が後年、国史の西田直二郎教授のお宅に月一回金曜日に集まって、文化史について一夕を論じることになった。この金曜会に水野君の勧めで、森鹿三君とこのグループに加はることになった。
この時代はまた柳田国男・折口信夫を中心とした日本民俗学の勃興期にもあたっていた。西田直二郎教授と折口信夫とは大阪の天王寺中学の同窓生であった関係で、金曜会でも一夕お話を聞いたことがある。こういうことが契機になり金曜会の大部分はまた、京都民俗学会のメンバーとして活動することになった。水野君が「民俗学」四巻八号にのせたR. F. Tortuneの「ドブの呪術師の書評」はこういう雰囲気から生まれたのである。私は水野君と東洋史、ないしは東洋考古学の同学としてではなく、何よりも文化史学と民俗学の同好として、学交を深めたのである*16

 

 水野は「東洋史」「東洋考古学」の同学である以前に、「文化史学」「民俗学」の同好だった。このことは、水野の個人的嗜好や、「若さゆえの過ち」といったものには還元できないように思える。というのも、この時期、ミンゾク学と考古学に等しく関心を抱く学徒が少なくないからだ。高松塚古墳の発掘で名高い末永雅雄(1897-1991)、内蒙古「慶陵」の発掘で日本学士院恩賜賞を受賞することになる小林行雄(1911-89)、朝鮮考古学の第一人者・有光教一(1907-2011)、考古学会の最長老として長らく君臨した斎藤忠(1908-2013)、昭和初年を京大考古学教室で過ごした彼らはいずれもミンゾク学に興味を示し、京大民俗学会に参加していた。小林は、折口説が自らの考古学説に重要なインスパイアを与えていることを自ら認め*17、考古学専攻の学生にも折に触れ折口学を学ぶことを勧めていたらしい*18

 

 誤解を恐れずにいえば、考古学とミンゾク学は、このとき、「新しい歴史学」の最前線だった。大正末年から昭和初年にかけて、西欧から移植された近代的歴史学すなわち文献実証主義がスタンダードとして確立される一方、大正教養主義を追い風に和辻哲郎、津田左右吉らが新たな構想力で史学に新風を吹き込み、日本最初の「新しい歴史学」といもいうべき潮流を産み出していた*19。上述の西田直二郎も、その中心人物の一人である。そして、伝承を対象とするミンゾク学と遺物を対象とする考古学は、いずれも「非文字史料」を扱い「人類文化史」の再構成に目指す点において、多くの課題を共有した。今日とは全く異なる学問の距離感が、そこにあったのだ。

 

 そうした古き良き蜜月が、無条件に良かったとは、もちろん、いえない。しかし、その乖離の経緯やそれによって生じた得失は、きちんと確認しておいても良いだろう。忘れられた「ミンゾク学者・水野清一」を手がかりに、そんなことを考えてみたい。

 




   
*1   礪波護1996「『死者の書』と「身毒丸」と」『新編集決定版 折口信夫全集月報』13、中央公論社、pp. 2-3
   
*2   貝塚茂樹1966「一期一会」『折口信夫全集月報』7、中央公論社、p. 1
   
*3   同前p. 2
   
*4   同前
   
*5   貝塚茂樹1969「折口先生の講演」『日本現代文学全集月報』104、筑摩書房、p. 4
   
*6   拙稿2008「京大国史の「民俗学時代」―西田直二郎、その〈文化史学〉の魅力と無力―」丸山宏他編『近代京都研究』思文閣出版
   
*7   森鹿三1966「西田先生を通して」『折口信夫全集月報』13、中央公論社、p. 1
   
*8   西田直二郎1954「釈迢空君を憶ふ」『短歌』創刊号、p. 83
   
*9   後に「民俗学研究会」となり、さらに「民俗学会」となるので、以下、総称して「京大民俗学会」と表記する。
   
*10   なお、ここでの「ミンゾク学(者)」という表記は、二つの「ミンゾク学」、すなわち「民俗学」および「民族学(文化人類学)」がゆるやかに連続した学問状況を指すものである。
   
*11   水野の経歴に関しては以下が基本文献となる。貝塚茂樹・日比野丈夫編1973『水野清一博士追憶集』「水野清一博士追憶集」刊行会(以下、『追悼集』)、江上波夫他1988「先学を語る―水野清一博士―」『東方学』75
   
*12   水野清一1967「折口先生と民俗学」『折口信夫全集月報』15、中央公論社、p. 1
   
*13   水野清一1968『中国の仏教美術』平凡社所収
   
*14   以下、大学を卒業するまでの経緯については森鹿三1973「思い出」(『追憶集』所収)による。
   
*15   同前p. 4
   
*16   貝塚茂樹1973「雲岡石窟刊行の経過など」(『追憶集』所収)pp. 81-82
   
*17   小林行雄1967「折口学と私の考古学」『日本文学の歴史 月報』1、角川書店
   
*18   京都大学文学部考古学研究室編1994『小林行雄先生追悼録』
   
*19   山口輝臣2005「大正時代の「新しい歴史学」―日本文化史という企て、和辻哲郎と竹岡勝也を中心に―」『季刊日本思想史』67
   
   
 

 

 
     
 
本書の詳細
   
   
 

 桑原武夫、貝塚茂樹、今西錦司、梅棹忠夫ら、独自の作法で戦後の論壇・アカデミズムに異彩を放った研究者たち。新京都学派と呼ばれた彼らの拠点こそ、京都大学人文科学研究所(人文研)でした。気鋭の民俗学者が人文研の歴史に深く分け入り、京都盆地の、そしてそこから世界に広がる知のエコロジーを読み解きます。
 伝説的な雑誌『10+1』INAX出版)誌上で始められ、その休刊とともに中断していた連載を、ここに再開します。屈曲蛇行する探検の道のりに、どうぞお付き合いください。

   
 
   
著者・訳者略歴
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菊地 暁
(KIKUCHI Akira)

京都大学人文科学研究所助教、文学博士。民俗学専攻。
〔著書〕 2001『柳田国男と民俗学の近代―奥能登のアエノコトの二十世紀―』吉川弘文館、2005(編)『身体論のすすめ』丸善。
〔論文〕2012「〈ことばの聖〉二人―新村出と柳田国男―」(横山俊夫編『ことばの力―あらたな文明を求めて―』京都大学学術出版会)、 2010「智城の事情―近代日本仏教と植民地朝鮮人類学―」 (坂野徹・愼蒼健編『帝国の視角/死角 〈昭和期〉日本の知とメディア』青弓社)、2008「京大国史の「民俗学」時代―西田直二郎、その〈文化史学〉の魅力と無力―」(丸山宏・伊従勉・高木博志編『近代京都研究』思文閣出版)、2004「距離感―民俗写真家・芳賀日出男の軌跡と方法―」(『人文学報』91)など(詳しくは、ここを参照)。

参考情報:「INAX出版」ウェブサイトはこちら

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