第20回 「風雲? 北白川城! ―付:ふたたび休載にあたって」 を公開!
人文研探検―新京都学派の履歴書(プロフィール)―| 菊地 暁(KIKUCHI Akira)
   
 
   
 
   
 

「人文研探検―新京都学派の履歴書(プロフィール)―」
第6回

ポルトレの人 桑原武夫
―その人物描写をかんがえる―


 前回までで、桑原武夫の「基本構造」は確認できたのではないかと思う。「構造」を知ることとそれを「実装」することのギャップはいうまでもなく、そして、時々刻々と変化する現実に反応し続ける軽快な身振りこそが、プラグマティスト桑原を理解するために最も興味深い論点なのだが、さしあたり「基本構造」をあぶり出したところで、新京都学派の「不動の中盤」を「正面突破」するという当初の課題に一区切りつけておきたい。

 

 桑原論をひとまず閉じるにあたり、彼の「ポルトレ(portrait)」すなわち「人物描写」の魅力を「紹介」してみたい。そして、「読んでみて! 面白いから」といいたいのだ。

 

 繰り返し述べておくと、桑原の作品と方法は、「フランス文学研究者」というラベルから解き放ったほうが、より正確であるし、むしろ生産的なのではないか。これが筆者の主張である。桑原武夫という知性には、彼を育んだ環境としての京大文化史学派がきっちりと織り込まれており、その観察には彼一流の歴史的パースペクティブが遺憾なく発揮されている。それと同時に、彼が三高・京大の登山仲間と共に培った「フィールドワーク」の経験は、その行動的な認識力にいっそうの磨きをかけた。こうした桑原の知的好奇心が、芸術作品として完成・完結した「いわゆる『文学』」に留まり続けることができないのは、当然といえば当然である。それでもなお、彼が「文学」にこだわり続けたのは、それが「人々」を見通し、「人々」に働きかける相互作用的な「フィールド」として、彼の視野に捉えられたからにほかならない。

 

 そこで、あらためて桑原の著作を一覧すると、「文学」を直接扱ったものはさほど多くないことが分かる。岩波書店版『桑原武夫集』全10巻(1980-81)には45項目の「テーマ別」索引が収められており、いわば、桑原の思考の「内的分類」として興味深い。試みに、著作数20以上の項目を拾い上げてみると、「学問」(20)、「文学論」(20)、「書評・解説」(21)、「政治・政治論」(22)、「自伝」(24)、「随筆・エッセイ」(25)、「日本文学」(25)、「フランス文学・思想」(26)、「紀行・旅行記」(34)、「文化論」(36)、「人物論・ポルトレ」(59)となる。さまざまな解釈を誘うところだが、さしあたり、「人物論・ポルトレ」が圧倒的に大きな範疇となっている事実を確認しておこう。

 

 「人物論・ポルトレ」における桑原の卓越は衆目の一致するところだ。「桑原先生は、人もしる人物論の大家である。だれかれに対する桑原先生の人物観察は、巨視的でありながら、するどく繊細で、そしてあたたかい」という梅棹忠夫の評言もその一つ*1。加えて、「ポルトレ」への愛着は桑原自らがしばしば語るところであり、全集の「自跋」にも、わざわざ「ポルトレについて」という一節が設けられている。

 

出来、不出来は別として、ポルトレは私の最も好きなジャンルであって、かなりたくさん生産した。[…]モデルはいずれも私の好きな人である。好きというためには、その人の学識、思想、業績などについて、専門的では当然ありえないけれども、おおよその知識あるいは見当をもっていなければならない。しかし、もし、それだけが問題だと、尊敬するか無視するか、味方にするか敵にするか、といったことにもなりやすいが、私が好きというのはもう少し深く、どこか非合理な生理の領域にまで関係することで、その人間の内部になにか生動しているものを感じつつ、人間存在全体に心ひかれる、つまり虫が好くという感じなのである。そして、そういう好きさがある場合はポルトレの成功率が高いようである。[…]私のポルトレは、だから対象にたいする愛情がなければうまくいかない。嫌な奴のは書けない*2

 

 「嫌な奴のは書けない」と言い切る率直さがすがすがしい。ここで彼が筆にまとめた「好きな」人物たちを眺めてみると、まずは父・隲蔵の同僚であり、彼自身が多大な影響を受けた京都帝国大学・文科大学の教授たち。西田幾多郎、内藤湖南、狩野君山(直喜)といった面々が取り上げられ、「この偉大な博士たちを研究するさいの資料」としても貴重である*3。中国文学者で評論家の竹内好は、桑原が描く京大東洋学の大家たちを大絶賛し、「自分も一生のうちにこういう文章が二つ三つ書ければ喜んで瞑目するが、書けそうにない」との手紙を桑原に送ったという*4

 

 つぎに、京都一中、三高、京大と学生時代を共にした同窓生たち。貝塚茂樹、今西錦司、吉川幸次郎など。これらの同窓生のうちに人文研の同僚が少なからず含まれることは連載初回に指摘した通りである。また、志賀直哉、萩原朔太郎、三好達治、織田作之助など、詩人・小説家たちを描いたものにも作家の意外な側面に触れた描写が少なくない。このほか、マルロー(フランスの作家・政治家)、ノーマン(アメリカの歴史家)、郭沫若(中国の作家・政治家)など、海外の作家・知識人たちとの交流から生まれたポルトレは、人物論であると同時に比較文化論ともなっており、世界の中の日本をめぐって随所に卓見が示されている。

 

 桑原人物論の魅力とは何だろうか。それは、「神の宿る細部」をえぐり出す手腕だろう。桑原の描き出す人物のディテールは、単に面白可笑しいというだけではない。それらは、人物像の更新を要求する。彼のポルトレは人物の「全体」を示唆する換喩的な「部分」に満ちあふれている。この具体的なディテールと全体的な人物像との絶えざる往還が、桑原人物論の魅力なのだ。

 

 試みに、思いつくまま、挙げてみよう。まず、西田幾多郎(1870-1945、哲学者)。

 

日本の現代作家はほとんど読まれなかったが『春琴抄』は読んでみたといわれるので、ご意見を叩くと、「何しろわれら如何に生くべきかの問題に触れていないからね」と答えられた*5

 

続いて、吉川幸次郎(1904-80、中国文学研究者)。

 

中国留学から返ったころ、倉石武四郎さんと二人でシナ服を着て歩いていた姿は、私の目にも鮮やかに残っている。河盛好蔵さんが吉田の辺の散髪屋に入ってかみを刈ってもらっていた。すると、散髪屋のおやじが、「お客さん、あそこを二人歩いてまっしゃろ、紋付を着て。あれ日本人やと思わはりますか。シナ人でっせ。きょうはばけとるんどす」と言った。それを河盛さんが吉川君に言ったら、大いに喜んだという話があります*6

 

さらに、柳田国男(1875-1962、民俗学者)。

 

冒頭で柳田さんがいきなり言った。こういう題[座談会「進歩・保守・反動」]なら、めいめいが自分は三つのうちどれだと思っているかを言うことにしようじゃないか。しかし、誰も発言しないので、先生はさらに続けた。中島[健蔵]君や桑原君は「進歩」だと自分できめているに違いない。僕はもちろん「保守」です。そして天野[貞祐]さんは「反動」。天野先生が心外という面持ちで、自分も「保守」だが「反動」とは思っていない、というと、柳田さんはすぐさま、だってあなたは教育勅語を尊敬しているじゃありませんか。あれを有りがたがっているようでは、どうしたって、「反動」ですよ、と断言したのであった*7

 

最後に、E・H・ノーマン(1909-57、歴史家)。

 

一九三九年、フランスからの帰途、ニューヨークで初めてあった白面やせぎすの青年学徒は、明治維新についていろいろ質問し、何の見解も示しえぬ私にははずかしい思いをさせた。黒人街ハレムへ案内されたことは旧著『フランス印象記』に書いたが、黒人で彼に礼をするものが多かった。彼は弱き者のシンパだった*8

 

 上記の文章は、それぞれに、単に挿話を紹介するばかりでなく、その人物の存在感、そして人物を包み込む時代の空気までをも彷彿とさせる。こうした記録が随所に見られるところが、桑原人物論の魅力である。なぜ、いま、読まれないのか。

 

 ひょっとすると、こうしたエピソード的理解の是非が、桑原人物論の好悪を分かつポイントなのかもしれない。そもそも、学問にしろ、芸術にしろ、ある人物の評価は、その仕事、作品の厳正な評価によるべきであり、それを産み出す過程は括弧に入れるべきだという立場にも一定の妥当性はある。そうしたスタンスがある局面において有効かつ必要であることは、桑原自身も認めないわけではない。とはいえ、仕事や作品も、結局は人のふるまいの産物であり、その生理から切り離し得ないというのが、彼のポルトレの立脚点なのだろう。

 

一般に日本の学問、芸術の愛好者は、偉い人を聖化したい意識が強すぎる。すぐれた学者、芸術家はみな神のように円満具足だと考えたいのである。しかし人物論は頌徳表ではない。私は人の、とくに偉い人の欠点ないし弱点をあばく趣味は持ち合わさず、また嫌いだが、しかし、すぐれた人もまた人間であって、奇言奇行があったと付言することは好きである。こんな変わったところ、おかしいところ、よくないところをもちながら、あるいはそれをテコにして、偉大な業績をあげたというところに、その人の偉さとおもしろさがあるはずだ*9

 

 ここまで書いてみて、我ながら拙速な紹介だと思わないではない。つまるところ、「余は人間なり。人間に関する一切の事に、余は無関心たりえず」を座右の銘としていたという桑原にとって*10、「人を描くこと」は、出発点にして目標点ともいうべきものなのだろう。桑原の本質は「人間観察の人」「ポルトレの人」なのだ。

 

 蛇足ついでに、桑原の警句を一つ引用しておこう。

 

一般に、日本人ほど人間認識の力の弱い民族は少ないので[は]なかろうか。それは、公式的にいえば、封建制が強く個性の独立がとぼしく、人間は種の中の一アトム化しており、人間認識をする必要が余りなかった。またやってみようにも面白い人間が少なかった、という理由によるのであろう。むしろ自然物や器物を評するときの方が精密な表現をする人が多い。一流の学者が人間認識については八流なることを発見してウンザリした覚えのあるのは、私のみではなかろう*11

 




   
*1   梅棹忠夫1981「知的巨人の人間像」梅棹忠夫・司馬遼太郎編『桑原武夫伝習録』(潮出版社)p.1
   
*2   桑原武夫1980「自跋」『桑原武夫集』5(岩波書店)pp.569-570。
   
*3   同上p.568
   
*4   桑原武夫1981(初出1977)「竹内さんと私」『桑原武夫集』9(岩波書店)p.524。なお、竹内好は「識見と統率力のある人」(1981 梅棹忠夫・司馬遼太郎編『桑原武夫伝習録』潮出版社)において、桑原の人物論の手腕が評価するとともに、自伝的文章はやや面白みに欠けるとして、「人物論の名手は逆に自画像は不得手のようである」(p.200)と指摘している。
   
*5   桑原武夫1980(初出1945)「西田先生の一面」『桑原武夫集』1(岩波書店)p.620
   
*6   桑原武夫1983(初出1981)「吉川幸次郎と欲望肯定」『昔の人 今の状況』(岩波書店)pp.30-31
   
*7   桑原武夫1980(初出1962)「柳田さんの一面」『桑原武夫集』6(岩波書店)pp.367-368。引用は全集収録に際して付せられた注記から。
   
*8   桑原武夫1980(初出1957)「ノーマン博士の思い出」『桑原武夫集』5(岩波書店)p.13
   
*9   前掲*2 pp.571-572
   
*10   生島遼一1981「「学生時代」の桑原さん」梅棹忠夫・司馬遼太郎編『桑原武夫伝習録』(潮出版社)p.15
   
*11   桑原武夫1980(初出1950)「人間認識」『桑原武夫集』2(岩波書店)p.531
   
   
 

 

 
     
 
本書の詳細
   
   
 

 桑原武夫、貝塚茂樹、今西錦司、梅棹忠夫ら、独自の作法で戦後の論壇・アカデミズムに異彩を放った研究者たち。新京都学派と呼ばれた彼らの拠点こそ、京都大学人文科学研究所(人文研)でした。気鋭の民俗学者が人文研の歴史に深く分け入り、京都盆地の、そしてそこから世界に広がる知のエコロジーを読み解きます。
 伝説的な雑誌『10+1』INAX出版)誌上で始められ、その休刊とともに中断していた連載を、ここに再開します。屈曲蛇行する探検の道のりに、どうぞお付き合いください。

   
 
   
著者・訳者略歴
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菊地 暁
(KIKUCHI Akira)

京都大学人文科学研究所助教、文学博士。民俗学専攻。
〔著書〕 2001『柳田国男と民俗学の近代―奥能登のアエノコトの二十世紀―』吉川弘文館、2005(編)『身体論のすすめ』丸善。
〔論文〕2012「〈ことばの聖〉二人―新村出と柳田国男―」(横山俊夫編『ことばの力―あらたな文明を求めて―』京都大学学術出版会)、 2010「智城の事情―近代日本仏教と植民地朝鮮人類学―」 (坂野徹・愼蒼健編『帝国の視角/死角 〈昭和期〉日本の知とメディア』青弓社)、2008「京大国史の「民俗学」時代―西田直二郎、その〈文化史学〉の魅力と無力―」(丸山宏・伊従勉・高木博志編『近代京都研究』思文閣出版)、2004「距離感―民俗写真家・芳賀日出男の軌跡と方法―」(『人文学報』91)など(詳しくは、ここを参照)。

参考情報:「INAX出版」ウェブサイトはこちら

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