朝日新聞(広島地方版)  2010年9月15日【論!2010 ヒロシマ・ナガサキ】で著者のインタビューが紹介されました。
朝日新聞 2010年8月8日「読書面」(12面)で紹介されました。
敗戦/終戦、そして原爆投下から65年。戦争体験者や被爆当事者が失われつつある今、あらためて原爆の投下と被爆の人類史的意味を批判的に検証していくなかで、国境と世代を越えて、ヒロシマとナガサキを考える意義を明らかにしていく。『原爆の記憶 --ヒロシマ/ナガサキの思想』(奥田 博子 著)特別寄稿をご紹介します。
 

◆◇ HOT TOPIC ◇◆
65年目の真実 太平洋戦争フェア 特別寄稿 奥田博子

 
 
   
原爆の記憶
 

原爆の記憶――ヒロシマ/ナガサキの思想

    
 
    
奥田博子 著
    
四六判/上製/480頁
初版年月日:2010/06/17
ISBN:978-4-7664-1725-8
定価:3,990円
  
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戦後、ヒロシマとナガサキは、一体何を象徴し、神話化してきたのか

▼敗戦/終戦、そして原爆投下から65年。戦争体験者や被爆当事者が失われつつある今、あらためて原爆の投下と被爆の人類史的意味を批判的に検証していくなかで、国境と世代を越えて、ヒロシマとナガサキを考える意義を明らかにしていく。

▼日本の戦争被害者意識を正当化する根拠として、「唯一の被爆国/被爆国民」 という 「集合的記憶」 を構築し、自らの戦争責任、戦争犯罪に対する免罪符を与えようとしてきた日本政府と、そのようなナショナル・アイデンティティの構築へのマスメディアの介在を分析する。

▼広島市、長崎市、原爆資料館等の協力を得て、写真や資料を多数掲載。

▼本書の目次を見る

【書評に掲載されました】
2010年9月15日 朝日新聞(広島地方版)【論!2010 ヒロシマ・ナガサキ】で著者のインタビューが紹介されました。
2010年8月8日 朝日新聞 「読書面」(12面)で紹介されました。
   
   
   
65年目の真実 太平洋戦争フェア
   
ただいま、三省堂書店神保町本店にて「65年目の真実 太平洋戦争フェア」を開催しております。『原爆の記憶』をはじめ、充実した関連書籍を取り揃えておりますので、ぜひ足をお運びください。



 
開催期間: 2010年8月1日〜31日 暑い日が続くなかご来場いただき、ありがとうございました。
開催場所: 三省堂書店神保町本店1階・3階・4階
※「原爆の記憶」が置かれているのは4階です。
 

<御担当者様のコメント等>
戦争の語り部の方々が減っていくなかで、文化発信基地としての役割を持つ書店として、 戦争の真実を後世に伝えていきたい。そういった強い信念を持って選書を行いました。
  
 
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特別寄稿
   
 

なぜ、いま、原爆をあらためて考える必要があるのか?



奥田博子


 原爆をめぐる対話は、個人的、地方的、国家的、地域的、そして国際的な重層構造から構成される。原爆を直接体験した人びとのあいだから導き出せる局面がすべての対話の基盤となる一方、その上に位置づけられる終わらない対話は他者を発見する過程ともなる。しかし、声や雰囲気の集積が時代の「空気」や「気分」を創り出すようないま、ヒロシマ/ナガサキは単なる記号にすぎなくなりつつあるのではないか。

 65年前の広島と長崎において、一体何が起こったのか。なぜ、広島と長崎に原子爆弾/核兵器が投下されたのか。その後、広島と長崎の原爆体験はどのように語られてきたのか。原爆投下という史実と原爆被害の実相を批判的に検証するうえで、日本政府が唱道する「唯一の被爆国/被爆国民」というスローガンは、アジアひいては世界で日本の立ち位置を模索するとき、障碍としかなりえないことを指摘できる。なぜなら、事後的に創られた「平和(文化)国家」日本という表象のもとで、広島と長崎の原爆体験や被爆の記憶をめぐる議論と想像力に枷を嵌めてしまうからである(なお、この点については拙著のなかで詳細に検討を加えている)

 敗戦/終戦から65年を経たいま、私たちに求められていることは二つあるだろう。一つは、「現在までにわかっていること」と「充分にはわかっていないこと」を判別することである。もう一つは、深い歴史認識と地球的視野に基づいて、ある時は地上を這いずる虫の視点で、ある時は空を旋回する鳥の視点で、ものごとの本質を見据えることである。的確に状況を判断する能力も、批判的にものごとを吟味する能力も、つねに私たちの日常/平和のなかに根ざすものである。

 かつて原子爆弾が投下された土地で人びとは復興を遂げ、いまも暮らしを営んでいる。このこと自体が貴重な歴史である。その一方、2010年4月9日に逝った劇作家井上ひさし氏が遺した「いつまでも過去を軽んじていると、やがて私たちは未来から軽んじられることになるだろう」ということばをしっかりと胸に刻み、私たちがいま住んでいる日本という時空間が他の国々のそれとつながっていることに思いを馳せるべきだろう。私たちには、他者の立場に立って自らを省みることのできる思慮深さを身につけることが求められているのである。

 国境を越えて共有されうる、また、共有されねばならない原子爆弾/核兵器に対する日本の道義的責任も忘れてはならないだろう。地球環境を含む私たちの社会そのものを考えさせるこの道義的責任は、ほんの少しの他者への思いやりと言い換えることもできる。他者と“触れ合う”なかで、いま、原爆をあらためて考えることは、私たち誰もがヒバクシャであり、ヒロシマ/ナガサキが訴える「核なき世界」を実現する役目を背負っているという責任を自覚することへと繋がってゆく。

 

 
     
著者略歴
   
 

奥田 博子
(おくだ ひろこ)

南山大学外国語学部准教授。
米国ノースウエスタン大学大学院コミュニケーション学研究科博士後期課程修了。
主要論文に、“Japanese Prime Minister Koizumi's Call for International Cooperation,” Journal of International and Intercultural Communication 2, 2009, 「日本における『ヒロシマ』と『ナガサキ』――記憶の抗争」、日本記号学会編『写真、その語りにくさを超えて』(慶應義塾大学出版会、2008年)、“Murayama's Political Challenge to Japan's Public Apology,” International and Intercultural Communication Annual XXVIII, 2005などがある。

 

 
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