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オリジナル連載

リスクマネジメントフォーラム

第2回:鳥インフルエンザとリスクの時間感覚
 
 

 

 近頃の某不動産デベロッパーによるマンションの耐震強度偽装事件をみても感じることだが、コストを下げるなど目先の利害という短期的な目標にとらわれて、長期的な目標となるべき安全性や顧客の信用を失うというケースが目立ち始めている。これは、リスクマネジメントでいえば、短期と長期のリスクについてどのようにバランスをとっていくかという古くて新しい問題といえるだろう。

 

 この問題を解決する上でのもっとも重要な点は、リスクマネジメントが成功したかどうかの評価を行う「エンドポイント」をどの時点に設定するかということに尽きる。極端な例を考えてみれば、このことがはっきりする。少々乱暴な意見になるが、(短期的利益を追求する投資家のような立場に立ってみて)四半期ごとにしかリスクや業績を評価しないのであれば、長期リスクは無視して、そのリスクが現実になった場合には倒産させてしまえばよい(あるいは株を手放す)ということになりかねない。市場原理のもとではそれも一つの考え方としてまかり通ってしまうのだが、このことは困った問題を引き起こしている。耐震強度偽装事件のいきさつにはっきりとあらわれたように、現実にそうしたことを行えば、長期的にみた社会全体でのコストが膨大になってしまうことは避けられないからである。


 さて、短期と長期のリスクとその予防という論点について、鳥インフルエンザ(というか、新型インフルエンザ)をめぐる話題で、おもしろいデータがあるので一つ紹介しておくことにしよう。


 よく知られていることだが、インフルエンザのウイルスは突然変異を起こしやすく、毎年シーズンごとに少しずつ違ったウイルスが流行するということもしばしば起こる。そこで、シーズンの最初にその年で流行しそうなウイルスを予測して、対応したワクチンを事前に大量生産して備えるということが行われている。このために、ウイルスの種類がマッチすればワクチンには予防効果があるのだが、残念ながらはずれてしまえば予防には役立たないという欠点も生まれる。この点は、インフルエンザのワクチンと、昔の天然痘や今日のおたふくカゼ(ムンプス)やはしかのように突然変異の少ないウイルスに対するワクチンとの違いである。


 と、ここまでのインフルエンザのワクチンの説明は1シーズン(つまり1年)での予防効果の評価についてのことだが、これに対して、英国のホスキンスという医学者は、同じ児童のグループを7年間にわたって追跡調査し、ワクチンの効果を数シーズンにわたって長期的に評価するという研究を20年以上前に行って、次のような結果を発表している。


 まず、ワクチンとウイルスのタイプが一致したり類似したりしている場合には、ワクチンにはそのシーズンでのインフルエンザを予防する効果が十分あることが確認された。しかし、その次のシーズンになると変わったことが起きたのだ。つまり、その前年にワクチンを打たずに自然にインフルエンザにかかった子供たちは、前年にワクチンでインフルエンザを予防していた子供たちに比べて、その年のインフルエンザにかかりにくかったというのだ。実際のインフルエンザにかかった場合の免疫力による予防効果の方が、ワクチンによって人工的に作り出した予防効果よりも強いのかもしれないということになる。そうした違いが積み重なった結果として、長期的な累積での発症を評価すると、ワクチンを受けたかどうかはインフルエンザにかかるかどうかにあまり関係しなかったという。


 もちろん、当時に比べれば、インフルエンザのワクチンの流行予測精度や接種方法も改善されてきてはいる。しかし、実際に病気になった場合とワクチンで予防した場合とで、長期的な免疫力に違いがあるということは十分考えられることだろう。


 そこで考えてみたいことは、このデータがもし、毎年のインフルエンザ流行と鳥インフルエンザ(新型インフルエンザ)の大流行というリスクについて当てはまってしまったらどうなるだろうということだ(そのまま当てはまるかどうかはともかく、思考実験としては意味があるだろう)。毎年、数日間インフルエンザで欠勤するのを避けるために、律儀にワクチン接種を受け続けた人たちの方が、インフルエンザ全般に対する免疫力が弱まってしまい、それまで自然にインフルエンザにかかったことがあった人たちよりも、新型インフルエンザにかかりやすくなってしまうという結果が生じかねないのだ。ワクチンをせっせと打つことで新型インフルエンザ大流行のための準備をしていたというのでは、笑い話にもならないだろう。


 この仮想的な例でも、問題となるのはエンドポイントの違い、つまり短期的な(1シーズンでの)予防という目標と長期的な予防という目標の間のずれである。健康リスクの場合には、とくに短期でのリスクや効果が過剰に評価されがちになる。いま目の前にある病気に集中する近視眼的な見方は、よく「病気の手術は成功したが病人は死んだ」と揶揄される。短期と長期のリスクを複眼的に見ることで、少し常識を疑ってみる訓練をしてみてはどうだろうか。


(2006年2月脱稿)

 

 

 
著者プロフィール:美馬 達哉 
京都大学高次脳機能総合研究センター助手
 

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