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テレビジョン解体  立ち読み

『テレビジョン解体』  

あとがき

水島久光(東海大学准教授)

 

ここ数年、テレビはずっとバッシングの対象となってきた。やらせ、視聴率操作、過剰取材、制作経費流用、そして科学的データの捏造。こうした「不正」事件それ自体がまたテレビ的な話題となり、信頼が失墜していくプロセスの反復は、「テレビの自殺」のようにも見える。しかし、直接当事者に下される“厳罰”をよそに構造的に根が張られた土壌(「日常生活」)は、こうした儀式によって逆により深く、したたかに温存されていくのである。

事件たちは、我々のテレビに対するシニカルな態度だけを残して、まちがいなくあっというまに「忘却」の彼方に消える。これもまたテレビが与えた「日常的」思考スタイルである。その一方で、テレビジョンが新しい「記憶」を作り出す装置として、忘れっぽい「日常」意識にあからさまに介入することも増えてきた。「忘却」と「記憶」、「無意識」と「意識」の狭間にあって、この第三次過去把持装置(スティグレール)は何をしてきたのか、これから何をしようとしているのか――。

本書は二〇〇六年五月に東京大学(駒場キャンパス)で開催された、日本記号学会第二六回大会「<記号>としてのテレビ」と、日本記号学会と国際哲学コレージュの共催で行われた日仏会館シンポジウム「日仏・テレビ分析の最前線」における討議の一部および、登壇者に後日寄稿いただいた原稿等によって新たに構成したものである。 デジタルメディア全盛の時代に、テレビを主題とすることにどのような意味があるのかという議論がなかったわけではない。しかし人々が新しいメディアに関心を移すほどに、ますます皮肉にも、テレビは日常の無意識への支配力を強化しつつある。そうなのだ、小さな形(なり)をしていたり、一見弱った格好をしている奴ほど「やばい」のだ。こうした点から見ると、「身体」、「ケータイ」、「大学」といった、これまでこの『セミオトポス』で扱ってきた主題たちと「テレビジョン」は同じ問題系にあるといえる。

ソシュールが、記号学の射程を「社会生活」そのものにおいたにもかかわらず、実際にはこれまで、この「学」の関心の中心は、日常に踏み込まずに留まってきた。なぜそうだったのかについては、巻頭の石田論文でほぼ言い尽くされているので、ここでは繰り返すまでもないが、要は旧来の「記号学・論」の、ひいては人文学全般を覆う社会的批判力の萎縮が、この「やばさ」の日常生活への浸透、再生産に加担してきたことは明らかである。

衰退した人文学の代わりに、社会生活の知を今日まで引き受けてきたのがテレビジョンであったと考えるならば、その“腑分けの学(Anatomia)”に「記号の知」をもって再挑戦することは、何よりも我々の弱体化した批判力の再生の契機となるであろう。しかも、大会〜叢書編集にいたる約一年間の作業は、奇しくも「記号学」本来の学際的構想に相応しく、テレビに関わる多方面の「知」――放送現場、技術開発、社会学等――が一堂に会し、語り合う「場」となった。これは何よりも大きな成果だったのではないだろうか。


 
 

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