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人造美女は可能か?  立ち読み

『人造美女は可能か?』 

はじめに――人造・美女・エンサイクロペディア

 

 

巽 孝之
 

はじめに――人造・美女・エンサイクロペディア
         巽 孝之
1 人造美女――その文学史と文化史
2 ポストモダン人造美女――ガイノイドから始まる
3 未来のイヴ、未来のエンサイクロペディア

 

  2 ポストモダン人造美女――ガイノイドから始まる

 こうした古くて新しい人造美女の系譜のなかで特徴的なのは、新しい世紀転換期ならではのさまざまな新概念が飛び交っていることだ。とりわけ、本書全体を貫いて「人造美女」自体の代名詞のように用いられている「ガイノイド」なる術語については、改めて解説が必要かもしれない。
 20世紀末より、性差理論からロボット工学を捉え返す動きが現れるようになった。たしかに1980年代は人間=機械共生系(マン・マシン・インタフェイス)への関心が異様に高揚した10年間であり、のちに文化研究の聖典となるダナ・ハラウェイの論考「サイボーグ宣言」(1985年)は、まさに有機と無機の境界線を越える視点から、旧来厳密に識別されていた人間型ロボットであるアンドロイドと身体器官の一部を機械化した生命体サイボーグとの差異を、なしくずしにしてしまった。
 だがいま、人間型ロボットとしてのアンドロイド形態にしても、ポストモダンな再定義を迫られはじめた――ジェンダーという微妙な言語と、ナノテクノロジーという微細な技術を視野に収めながら。
 ここに、人造美女を指す新たな概念「ガイノイド」gynoidが登場する。発案者はイギリスの女性作家ギネス・ジョーンズ、彼女の1984年の長篇小説『聖なる堅忍』がお披露目の場。普及者は同じくイギリスのポスト・サイバーパンク作家リチャード・コールダー、その自動人形シリーズ第一作「トクシーヌ」(1989年)の主人公は人間女性を人体加工して何とか少女人形にのみ可能な究極の美学を表象しようと試みたのだったが、第二作「モスキート」(1989年)では、語り手の男性が自分自身の生身の肉体を素材に人造美女ガイノイド理念を実現しようと企む。  舞台は21世紀前半のタイ、この時代のヨーロッパは様式美だけの帝国へと堕し、アジアが工業生産の王座にある。中でもタイ製の性欲処理用ロボット「自動人形」は群を抜いており、イギリス人貴族ジェイムズはタイ製ドールを一台自国へ持ち帰るため、ドール密売業者と取り引きしようと考えていた。
 物語は、密売業者の一味である語り手の性倒錯男モスキートがカフェ・ガンホーでミロード・ジェイムズと出会うや否や彼の美貌に一目惚れしてしまう場面からはじまる。モスキートはドールに憧れるあまり、雄性ホルモンだけを残してあとはすべて女性化してしまった肉体改造者。雄性ホルモンだけ残したのは、むろん「完全な女性」とは「男性的理念」あってこその産物であるため、ゆえに自ら「完全な女性」になろうとしたら「生物学的女性になりきる」ことはタブーであるためだ。
 ここで、「モスキート」における性欲処理用自動人形こそは別称「ガイノイド」と呼ばれる種族なのである。  ガイノイド――文字どおりには「雌蕊の偽物」、通りがいいのは「人造女」、そしてコールダー小説内部で意味されているのはずばり「性欲処理用自動人形」。だが、この新造語が孕むラディカリズムは、予想外に深い。  ガイノイド、それは第一に、人間型ロボットがアンドロイドと呼びならわされていることへの疑問であり、そもそもアンドロイドなる記号自体が言語の乱用すなわち濫喩(キャタクレシス)にほかならないことを露見させる絶好のアンチテーゼである。男性を示す記号「アンドロ」によって人類の意味をも兼任してしまうのと同じ家父長作用は、アンドロイドが語源的に「男性モドキ」であるにもかかわらず「人間モドキ」をも兼任せざるをえない事情にも反復されてきた。美女アンドロイドという表現を語義矛盾と感じさせないほどに巧みに、「アンドロイド」は西欧近代家父長制を補強してきたのである。
 ガイノイド第二の意義が、ここで強調されなくてはならない。それはまさしくエレイン・ショーウォーターの提唱する女性文化批評と連動できる最初の人工生命なのだ。アリス・ジャーディンは、西欧近代家父長制の支配的言説が「時間」軸に沿った男性原理と断じ、そのような支配的言説自身が把握しえず制御しきれぬ「空間」領域を――従来は「自然」「他者」「物質」「狂気」「無意識」とからめて「女性的含意」を与えられてきた領域を――聖書創世記の起源神話genesisを模して「ガイネーシス」gynesisの名で呼んだ。女性自身というよりは男性原理の盲点に発生せざるをえない空間、それがガイネーシスの名に値するのだとすれば、ガイノイドが時に男性製作者さえ――いや、男性製作者だからこそ――意識しない意外性を示すのは、すでにコールダーSFでは半ば約束事と化している。たとえば自動人形シリーズ第三作(最終作)にあたる「リリム」(1990年)では、ほんらい天使になるよう製作されたメルヘン風ロボットたちがどうしても意図せざる毒を孕んでしまうのだけれども、それは誰よりロボット製作者自身が無意識のうちに、文字どおり自らの無意識をあらかじめロボットに吹き込んでしまっていたことに起因する。
 神から火を盗むプロメテウスの神話であれば、これをたんにテクノロジーの産物の無根拠なる自走と片づけるかもしれないが、自作の美女人形ガラテアに恋してしまうピグマリオンの神話に拠るならば、このようなロボット種族の自走の背後に、論理学的でも認識論的でもなく、まさに量子論的なレベルの「事故」を見出だすだろう。そもそも聖書的には、アダムの最初の妻リリスは悪行を重ねたために楽園を追放されて魔女と化し、人間に危害を加えはじめる存在なのだが、その娘がリリムなのだから、リリム名義のロボット種族が「いつか地球を継ぐもの」であるかもしれない可能性は最初から大きい。アリス型リリム・タイターニアの製作者は、こう息子に語る。「いつもわたしは他人を責めていた。きっと極東のライバルがプログラムにバグを注入したせいだ、と。だが、あのウイルスはわたしのものだった。タイターニアのプログラムの行間、かぎりなく複雑なフラクタル・テキストの内部には、わたしの子供時代の悪夢がひそんでいたんだ」。その悪夢が文字どおり聖書テキストに起因するものだったことは、想像に難くない。
 ガイノイド第三の特徴は、したがってそれが量子論的にゆらぐ世紀末現在をあまりに鋭利に反映するため、現代人の肉体と衣装の区分を危うくしつついわばメタ鏡像段階の空間を恒常化しかねないことである。たしかにモスキートのような女性理想主義者は、一見ウルトラ家父長制を実演するだけのように映るかもしれない。じじつ家父長制の補強はあらゆる男性同性愛者の政治的無意識であろう。しかし女性モドキどころか正確には性転換者モドキにすぎぬ彼は、完全な男性同性愛者でもなければ完全な両性具有者ともいえず、または完全なサイボーグでもなければ完全なロボットともいえぬ。服装倒錯を日常とするモスキートにとって、性差は着脱自由自在の衣装であるとともに、まさにその着脱可能性こそが彼の肉体的本質を成す。
 だからこそ、冒頭カフェ・ガンホーの場面で、男装で現れた彼モスキートは「雄性の牢獄に閉じこめられ」ているのに悩むものの、翌日にはドールを彷彿とさせる美貌をまとい愛しいミロードを殺害し、そしてまた次の瞬間には平然と男装姿で歩き出す。
 服装倒錯男性モスキートは人造美女ガイノイドに憧れるあまり、ガイノイドの構造の奥底深くしまいこまれた見知らぬ脱男性的欲動に至るまで我知らず着服し反復してしまったのではあるまいか。ふりかえってみればトクシーヌが淫靡な情欲を忘れられないのも、リリムが人間世界に毒をもたらしてやまないのも、決して彼女たちが男性自動人形師の手を離れて自走するテクノロジーであったせいではない、むしろ造り手側も意識せざる自らの盲点があらかじめ刷りこまれていたからだった。ピグマリオン神話そのものの盲点が、ここにある。そして、コールダー第一長篇『デッド・ガールズ』(1992年)グラフトン社版初版ハードカバーのジャケットがハンス・ベルメールの球体関節人形で飾られていたのは、まさに物語の主役たちがポストモダン・ガラテアの似姿だったことを強調しただろう。
 そしていま、21世紀初頭、ポスト高度資本主義都市のそこここにひそむ新たなガイノイドたちは「ドラァグ・クイーン」なる新たな資格により、自らが人形作者ピグマリオンにしてその美女人形ガラテアともなりうるという二重の役割を演じ、理想の女性性そのものの建築者たらんとする。



 

著者プロフィール:著者プロフィール巽 孝之(たつみ たかゆき)

1955年生まれ。コーネル大学大学院修了(Ph.D., 1987)。 慶應義塾大学文学部教授。 19 世紀アメリカン・ルネッサンスの時代を中心に、アメリカ文学思想史の可能性を検討している。主著に『ニュー・アメリカニズム』(青土社、1995年)、『アメリカン・ソドム』(研究社、2000年)、『リンカーンの世紀』(青土社、2002年)、『アメリカ文学史』(慶應義塾大学出版会、2003年)ほか多数。

 

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