「椿の乙女」
秋田・出羽編/秋田・八郎潟周辺
むかし、男鹿の海辺に大津波が起こった。潮が引いたとき、金崎と館山崎の入江に小さい山が一つできており、能登から流されてきた、ということで能登山と名づけられた。能登山が流れ着いてから数えきれない月日が流れた後、その村の娘と行商の若者が恋に落ちた。若者はその娘に、髪がより美しい黒髪になる油がとれる椿の実を持ち帰ることを約束し、故郷に戻った。娘は待ち続けたが、若者が帰ってきたときは、待ちこがれた娘が海に身を投げた後だった。悲しんだ若者は能登山に登り、娘の名を呼びながらその実をまいた。そして、この実は寒い北国に根を下ろし、赤い花をいまでも咲かせている。
● 自然科学の眼 ●
このお話は、二つの興味深い事実を含んでいます。一つは、津波の話。もう一つは椿の話です。
男鹿半島に大きな被害をもたらした津波はそれほど多くありません。『理科年表』を一つのよりどころに、該当しそうな津波を探してみると、三件の津波がこの民話の冒頭部分を飾っている可能性があります。男鹿半島およびその周辺に被害をもたらした地震は複数ありますが*1、その中で津波被害が記録として残っているものは、一七九三年、一八〇四年、一八三三年の三件で四十年間に集中しています。一般に、民話の成立年代を特定することは難しいことですが、この年代に起きた津波被害に関する言い伝えが、能登山成立の話を生み出した可能性は十分にあるのです。
[*1] 830、1644、1694、1704、1793(西津軽。小津波の記録)、1804(象潟、酒田などに津波の記事あり)、1833(津波が本庄まで襲った記録あり) 、1939(男鹿地震)、1964、1983。
現在でも能登山は自生のつばきに全山覆われており、日本におけるつばき自生北限地帯として、学術的にもたいへん貴重な場所になっています*2。話の中核になる椿――つばき(=ヤブツバキ)の分布は、青森以南の本州、四国、九州、沖縄といった暖温帯が中心*3なので、やはりこの地域でつばきが見られるということはたいへん珍しいことと言えます。この珍しさに悲恋という物語を添えることによって、自生つばき北限地帯独特の景観を説明しようとしたのでしょう。
[*2] 同じく、青森県夏泊半島の群落がツバキ自生北限地帯の指定を受けている。
[*3] ツバキ科には約30 属500 種があり、そのほとんどが世界の熱帯・亜熱帯に分布している。
逆に若者が撒いたものが根づいたという話が事実であれば、この地はつばき自生地とはなりません。ただし、持ち込まれたものであってその年代が特定できるのであれば、先の津波記録の年代をさらに詰めることができるという、興味深い展開が期待できます。
民話の中にはこの「椿の乙女」のように、もしくはそれ以上に正確に、地震・津波などの史実を伝えてくれるものが数多く認められます。大きな災害をもたらし、時には死者を出すような大災害が人々の記憶の中でいつしか民話として再構成されていくのでしょう。
例えば、宮城に伝わる「導き地蔵」は次のような話を伝えています。
舞台は気仙沼の沖に浮かぶ大島。幼い子どもをつれて田植えの手伝いに遠くまで出かけた母は、地蔵尊の近くを通り過ぎようとしたときに、おびただしい数の人がお地蔵様を拝んでは消えていくのを見た。昔から「このお地蔵様には、明日死ぬ人の魂がご挨拶に来る」という言い伝えがあるのを思い出して急に怖くなったが、はっと気づくとあんなにいた亡者がいつの間にかいなくなっていた。帰って夫にその話をしても、「狐にでも騙されたんだろう」と取り合ってくれなかった。翌日は旧暦の端午の節句であり、また潮が一番引く大潮の日でもあった。潮はどんどん引き、面白いほど海藻などの海の幸が採れたが、普段なら潮がさしてくる時間になっても一向に潮が満ちる気配がない。すると、沖合いでドドーンという大きな音が立て続けに鳴り、真っ暗な沖のほうでピカッ、ピカッと稲妻のような光がきらめくと、地響きのような海鳴りと共に山のように盛り上がった津波が岸をめがけて押し寄せてきた。この親子は裏山に登って助かったが、多くの人馬が一瞬のうちに波に飲まれた。昨日の亡者はこの人たちだったんだ、と母は改めて思った。このときの津波で大島では、死者六一人、死んだ馬は六頭と書付に残っている。地蔵は導き地蔵と呼ばれ、今でも花や線香をあげる人が絶えない。
さて、大島には田中浜から内陸に入ったところに、確かに「導き地蔵」と呼ばれる地蔵尊が今でもあります。問題は民話の内容を裏付ける史実があるのかどうかというところですが、たいへん興味深いことにこの民話の中には津波の前触れとして地震が起きたという記述が一切ありません。確かに三陸沖は大規模地震の巣で、今に至るまで数多くの地震被害をもたらしてきました。しかし、民話が示すような、揺れをほとんど伴わない津波などあるのでしょうか。昭和三五年に起きた「チリ地震津波」は震源が遠く離れていたため、純粋に津波だけが到達するというもので、その波高は気仙沼市で最大三・五メートルを観測しました。それ以外の津波はどうでしょうか。歴史を紐解くと、三陸海岸を襲った代表的な津波に貞観一一(八六九)年のマグニチュード八・三の地震に伴うもの、慶長一六(一六一一)年のマグニチュード八・一の地震に伴うもの、そして明治二九(一八九六)年の三つの津波があります*4。
[*4] 国立天文台編『理科年表』 丸善、2008年。
この中で、三番目の「明治三陸津波」だけ震害をほとんど伴っていないのです*5。これは低周波地震と呼ばれるもので、実際には当時五分程度続く弱い揺れがあったようです。それが、津波直前に鳴動を感じた後、最大波高二四・四メートル(現在の大船渡市吉浜)という前代未聞の大津波が襲来したのです。大島では死者六一名とされていますが、青森、岩手、宮城各県の死者の総数は二万二千人に達する悲惨なものでした。本来なら、津波を起こす岩盤の破壊と「戻り」は急激なため(図1)、その衝撃波は揺れとなって伝わるのですが、低周波地震の場合はその「戻り」が一瞬ではなく、数分という長い時間をかけて起こるために地震動の規模が小さいのです。
[*5] 渡辺偉夫『日本被害津波総覧』 東京大学出版会、1985 年。
しかし、破壊規模が大きいと岩盤の「戻り」がゆっくりであっても、押し上げられる水塊の量は膨大なものです。沖合いで水塊の上昇が起こると沿岸部の水はそちらに引かれるため、ちょうど引き潮のような状態になります。これは民話の記述とぴったり一致します。そして壁のような津波が押し寄せてくるのです。二四メートルという高さは、六階建てのビルに相当します。当時の人にとっては山が迫ってくるように見えたことでしょう。また、民話の中の稲妻のような発光現象も、大規模な地震にともなうものとして知られています。貞観一一(八六九)年の「三陸はるか沖地震」においては「流星昼のごとく映える」という、稲妻とは異なる表現で日本最古の発光現象として記録されています。
そしてこの民話が史実であることを示す決定的なもの、それはこの地震が起こったのが六月一五日、旧暦の五月五日。まさに端午の節句の日なのです。この「導き地蔵」の創話には古いモチーフがあったのかもしれません。しかし、そのモチーフに、「明治三陸津波」の史実が重なったことは間違いないでしょう。
場所が変わって、能登には「神様に見すてられた村人」という津波災害をモチーフにした別の民話が伝わっています。
昔、沖合いで助けを求めていた越前船を助けずに船荷を奪ってしまったという樽見村の村人達の悪行に、神様が怒って大津波を起こして村を一飲みにした、というお話です。その後もたびたび大津波を起こして許すことはなかった、と伝えています。この民話が伝える情報量は極めて少ないのですが、引き出せる情報を一つずつ丁寧に見ていきたいと思います。まず旧樽見村は能登半島の北岸部に門前町樽見として現存します。国土地理院発行の二万五千分の一地形図を見ると、門前町樽見は比較的標高が高い位置にはありますが、深い谷あいの奥まった上部に集落があります。津波は巨大な水塊の移動ですので、谷あいの奥まった位置にある集落の場合、水塊が谷に沿って溯上して被害を与える可能性があるのです。一九九三年に発生した「平成五年北海道南西沖地震」では、奥尻島の藻内地区の谷筋を津波が一気に溯上し、標高三〇・六メートルの地点まで浸水したという事実がそれを裏付けます*6。それでは、能登半島を立て続けに津波が襲った時期があるのでしょうか。
[*6] 「Newton」 ニュートンプレス、2002年6月号。
過去の地震記録を見ると、能登半島に大きな被害をもたらした津波はほとんどありません。寛保一(一七四一)年の北海道南西沖地震では能登の皆月(樽見の隣村)に被害が出たことが記録として残っている程度です。宝暦一二(一七六二)年の新潟県沖地震では、佐渡北端の両津市願(ねがい)が全部落流失という被害に見舞われていますので、能登半島でも津波もしくは高潮を観測した可能性があります。また、天保四(一八三三)年の天保津波の際も影響が出た可能性はありますが、いずれも実害の報告に乏しく、最近になって一九六四年の新潟地震に伴う津波で一メートル弱の津波、一九九三年の北海道南西沖地震でも高さ数十センチの津波が能登で標高一・五メートルまで達した程度でしょうか*7。これらのことを総合しますと、民話として残されるほどのインパクトを能登半島周辺に残した地震は一つしかないようです。すなわち、寛保一(一七四一)年の北海道南西沖地震です。おそらく、この地震にともなう能登半島北岸の津波被害の記録が、「困った人を助けるのは人の道である」といった道徳譚と融合して「神様に見すてられた村人」のような民話を生み出したのでしょう。
[*7] 渡辺、前掲書。
沖縄県の八重山群島に伝わる「人魚の歌」は、明和八(一七七一)年の津波についての史実を描いていることを民話の中で明言しており、津波の様子を物語として伝えようとするものであることがはっきりしています。その概要は次の通りです。
石垣島東海岸近くの野原(のばる)村では、人々が寝静まった夜に海岸の方から胡弓のような細く美しい声で歌う者があったが、だれもその姿を見たものはいなかった。ある日のこと、村の老人が海岸で投げた網に人魚がかかった。人魚は、自分を放してくれたら人間や動物の命に関わる秘密を話す、というので約束をして話を聞いた。それは、明日のお昼頃に石垣島を大津波が襲う、というものだった。人魚を海に放してやると、海の中から例の胡弓のような美しい歌声が流れてきたのだった。村人は家財や家畜を山の上に運び、隣の白保村
の人々にも伝えたが、そんな馬鹿なことがあるかと取り合ってくれないので、知らせに行った若者はそのまま山上に逃れた。あくる日のお昼頃、海が大干潮になると白保村の人々は喜んで沖合いまで潮干狩りに出かけてしまった。そのとき、遥か沖の方からごう、というものすごい音がしたかと思うと、大津波が陸めがけて襲ってきた。この大津波で島の人々は皆死んでしまったが、人魚に助けられた野原村の人々だけが生き残ったのだった。
この民話に描写されている津波は宮城の「導き地蔵」同様、津波の前兆を良く表しています。海底の岩盤の戻りに伴う水塊の急激な上昇はそのまわりの海面の低下をもたらしますので、海岸では強力な引き潮になります。そしてその後に水塊が壁となって押し寄せるのです。念のためにお話ししておきますが、津波の際に必ず引き潮になるわけではありません。二〇〇四年に起こったスマトラ島沖地震ではスマトラ島に向かった東向きの最初の波は引き波でしたので、従来から言われているように最初に大きな引きが観測されました。
しかし、西向きの波は押し波でしたのでスリランカをはじめとする地域はいきなりの高波に襲われたのです*8。
[*8] 「地球大異変」『別冊日経サイエンス153』 日経サイエンス社、2006 年。
「人魚の歌」に記される津波は「明和八重山津波」として歴史的に記録されているものですので、少し詳しくお話ができます。この津波を引き起こした地震は琉球全体で感じることができるものでしたが、震害はなかったようです。津波は石垣島の主に東岸を襲いましたが、その始まりは民話の言うとおり「引き」から始まりました。そしてこの津波の波高は、野原村の近隣であったと思われる宮良村で八五・四メートルを記録しているのです。この二十階建てビルに相当する高さはもちろん日本の津波史上最大のもので、浸入した海水は石垣島の総面積の約四〇パーセントに相当する地域を覆い尽くしました。当時、石垣島の総人口は一万八千人弱でしたが、溺死などによる死者数は八千人強。死亡率は実に四六・六パーセントに達します*9。二人に一人が死亡するという状況は、「島の人々が皆死んだ」という表現が決してオーバーでないことを示しているのです。そして最終的には八重山群島全体から三万人弱の命を奪う大惨事となったのでした。
[*9] 渡辺、前掲書。
民話は単なる作り話であることはもちろんあります。しかし、これまで見てきたようにいくつかの話は、史実を背景に描かれています。丁寧に読み解いていくと日本最大の津波災害まで見えてくることがあるのです。採り上げた話以外にも、日本各地にこのような津波災害を記憶した民話が人知れず眠っているのかもしれません。
〈類似の民話〉
『導き地蔵』宮城・みちのく編(みちのく)、『神様に見すてられた村人』加賀・能登・若狭・越前編(加賀・能登・奥能登)、『人魚の歌』沖縄・八丈島編(沖縄・八重山群島)
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