私がかつてスクールカウンセラーをしたパリ日本人学校では、校長先生の理念であった「みんなちがって、みんないい」という標語がいたるところに貼り出してありました。先生方も生徒も、それを当然のこととして受け止め、また実際にのびのびした授業や活動がすすめられていて、ユニークな子どもたちが育っていました。当時、日本ではいじめや学級崩壊とかの暗いニュースばかりだったので、日本の公教育でも場所が変わるとこう変化する、この方針を取り入れれば日本でも個性を育てる学校づくりはできる、と考えたのでした。
しかし帰国して臨床の現場に戻ると、自信を無くして無気力になってしまった中学生や小学高学年の子どもたちに多く出会うことになりました。「僕はなんのとりえもない」「何をやってもうまくいかない」「生きていても仕方ない」と訴え、「もう死んだほうがよい」と述べる子どもさえいました。その子どもたちも良い資質・感性を持っていたので、それぞれに合う状況に恵まれたら、このような悲観的で、自己否定的な状態に陥ることはなかったと思うことがしばしばしばありました。個性を伸ばしていくということは、それぞれの持つ個性を摘まないという配慮や育みが何よりも必要ということを再認識しました。
そのように子どもたちが自信・意欲をなくしてしまうのは、家庭や子どもを取り巻く学校の状況がよくなかったという場合だけではありません。ごく普通に行われてきたしつけや教育の場でも、子どもたちは10歳を過ぎるころから、段々と対他的配慮を強め、それを基にして自分を評価していく傾向があります。それは日本の伝統的精神風土とも関連し、日本人の慎み深さ、礼節などの美徳でもあるのでしょうが、私にはあまりにも早くから子どもに対し社会秩序への適応が要求されているように思われてなりません。それが、個性を伸ばす教育をある面では難しくしているのです。
それにもかかわらず、やはり子どもたちの持つ優れた資質・才能を早く見つけ、それを早期から積極的に教育してやることが、子どもたちの自己価値を高め、自分に自信を持ち、意欲を燃やし、個性を伸ばしていくという考えもあります。また、一つでも本人にとって自信が持てる分野の能力を伸ばしてやることが、自信と安定につながっていくと言う人もいます。早期からの才能教育というものです。しかし、それには子どもの資質と意欲についての慎重な判断がまず必要です。そして子どもの発達段階に合った働きかけ、具体的には子どもの脳機能がそれを受け入れるまで成熟しているかの見定めが要求されます。それらを考慮せずにすすめられる才能教育は、子どもをますます不安定にして、不幸な結果を招きかねません。子どもの臨床家は、その犠牲者ともいうべき子どもにいつも遭遇しています。
そうすると、個性を育てる教育は「個性を摘まない教育」ということにつきます。子どもたちはそれぞれに個性的な資質、才能をもっています。子どもたちへのしつけや教育を普通に行い、子どもたちが情緒的に安定し、日々の生活を楽しめていたら、子どもたちはその資質を伸ばしていきます。家庭や学校で必要なことは、このごろ少し様子がおかしい、不安定になった、意欲をなくしているということがあったら、それを早く察知し、適切な受容的対応を示すことです。それはいつも子どもを温かく見守り、その自然な成長を楽しむということでもあります。
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