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巻頭随筆

「動機づけ」の根源は?――学びの「でこぼこ道」に      丸野俊一

 

 人間は、生まれながらにして、自分を取り巻く「モノ・ヒト・コト」の世界に興味・関心を示し、自分の身体(口、目、手、動き等)を思考の道具にしながら、世界を探索し続ける豊かなエネルギーを持っています。子どもにとっては、「全てが、新奇な不思議な世界である」からでしょうか、探索(学び)の意欲(動機づけ)が消え失せることはありません。ところが、幼稚園、小学校、中学校と、いろいろな経験や教育を積み重ね、子どもたちが一定の知識を身につけるようになると、自分なりに枠づけした“もう見た、聞いた、知っている”という“つもりの世界”に入り込み、新たな視点から、未知なる世界に挑戦しようとする「学びの動機づけ(やる気)」は次第に薄れていくようです。どうしてでしょうか。

 私は、次のように考えています。子どもの心の中にある“つもりの世界”は、親や教師が「失敗しない」ようにと敷いてくれた、石ころのない平坦なアスファルトの道を、ただひたすら、黙々と歩く中で作りあげられてきたものです。そこには、子どもなりの判断基準や選択の幅や創意工夫は十分に反映されていません。そうして形成された“つもりの世界”は、“深淵な真実の世界”に比較すると、非常に狭く一面的です。さらに悪いことには、その世界に安住し、主体的にその殻を打ち破ろうとはせず、自分の可能性や長所・短所についてさえも十分に吟味していないために、無自覚な状態にあるとも言えます。

 しかし、体験に裏づけられた自分なりの確固とした、充実感・自信めいたものがあると、子どもは、困難に怯むことなく、新たな学びに、やる気を起こすはずです。そのためには、子ども一人ひとりが、自分づくりに向けて、自分にふさわしい学びの「でこぼこ道」を自分の足で歩いていくことが大切です。動機づけの根源、それは、子ども一人ひとりが、学びの「でこぼこ道」をどのように受け止め、どのように歩いていくかにあります。

 学びの「でこぼこ道」、そこは予想のつかない茨の道であり、既成の考えやものの見方や生き方では対処できない、自分の限界を知る、何処にどのように続く・繋がるか不明、だが自分の可能性が開花する世界かもしれません。将来何になりたいか(「ビジョン型」)、いま何が楽しいか・大事か(「価値観型」)で、取り組む課題への動機づけが異なることにも気づくかもしれません。学びの「でこぼこ道」は、どの道をどのペースで進むか、どこにどれだけの時間をかけるか、常に自己省察が求められる場であり、躓き・淀みの中から新たな学びが生まれる、時には回り道が新たな創造に繋がることを肌で実感できます。歩き方次第で、学びの世界が広がるか否かが決まることを体験できるというわけです。学びの「でこぼこ道」を乗り越えると、そこには、自分もやればできる、他者に貢献できる、自分の中に潜在していた可能性に気づくといった、自己有能感・自己達成感が芽生え、鳥瞰的視点から全体を見渡すことができるようになり、新たな困難な状況や課題に遭遇しても果敢に挑戦しようとする強い精神力が培われてくるかもしれません。

 これまで、学びの「でこぼこ道」をどのように受け止め、どのように歩いていくかが、学びへの動機づけを大きく決定づけることを述べてきましたが、動機づけは、個人内に閉じたシステムではなく、状況・他者・自己・外界との相互作用(関係性の在り方)によって、常にダイナミックに揺れ動く心理現象・行動特性です。その意味では、親や教師が子どものやる気を引き出すためには、子どもが、“いま、何に価値をおいているか”に心を配り、「何に、どんな時に、どんな状況でワクワクするかを探り、そこを温かく見守り・サポートしてあげる」ような、“待ちの関わりの姿勢”が大切ではないかと思います。


 
執筆者紹介
丸野俊一(まるの・しゅんいち)

九州大学理事・副学長・基幹教育院長。九州大学大学院人間環境学研究院特任教授。教育学博士。専門は認知発達心理学。九州大学大学院教育学研究科博士課程中途退学。著書に『子どもが「こころ」に気づくとき』(共編著、ミネルヴァ書房、1998年)、『認知発達を探る』(監訳、北大路書房、2008年)、『〈内なる目〉としてのメタ認知』(至文堂、2008年)、『感性・こころ』(共著、亜紀書房、2008年)、『「日常型心の傷」に悩む人々(現代のエスプリ)』(共編、ぎょうせい、2010年)など。

 
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