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巻頭随筆

多文化主義の「危機」        望田研吾

 

 21世紀に入って15年ほどたった今、グローバリゼーションが進行する中で叫ばれ続けてきた異文化理解や多文化共生を標榜する多文化主義は、かつてないような「危機」に直面しているように思われます。2001年の9.11をきっかけに始まった欧米社会におけるイスラームへの敵意や反感の広まりと、それへの反作用としてのテロは、多文化主義自体に対する懐疑を増幅させる事態をもたらしているかの感があります。

 それは、9.11から10年ほどたった頃に期せずして表明されたイギリス、ドイツの首相による「多文化主義の失敗」という認識にも端的に表されています。イギリスもドイツも、国内の多民族化にともなって多文化共生や多文化教育を進めてきた国ですが、その両国首脳が相次いで多文化主義への疑問を呈したのです。

 イギリスのキャメロン首相は、2011年2月5日のミュンヘンでの安全保障に関する会議における演説で、いわゆる「ホームグロウンテロリズム」(イギリス生まれイギリス育ちの者によるテロ)に対処するためには、イギリスでそれまで実施されてきた「政府主導の多文化主義」を廃棄しなければならないと、次のように主張したのです。「私たちは、私たちの価値とは反対の価値を認める分離されたコミュニティを許容してきました。その中で、イスラームの若者たちは過激なイデオロギーに染まっていったのです。その脅威を取り除くにはこれまでの失敗した政策を改めなければいけません。政府も社会も、人々が分離して生活することを奨励するのではなく、明確な国民的アイデンティティを共有するようにしなければならないのです。普遍的な人権(特に女性に関する)を標榜し、統合を促進するような組織にしか公的資金を交付しないようにすべきです。近年のような(イスラームコミュニティへの)何でも認める寛容性は捨て去り、アクティブで強力なリベラリズムを徹底すべきです」

 このように、キャメロン首相は、明確な西欧的価値観に基づくイギリス国民としてのアイデンティティへの「統合」こそが必要であるとの同化主義に傾斜した方向性を打ち出したのです。

 この4カ月ほど前の2010年10月16日にドイツのメルケル首相は、キリスト教民主同盟の集会で、移民としてドイツにやってきたいわゆるゲストワーカーについての演説の中で次のように述べています。「私たちは彼らがそのうち(母国に)帰って行くだろうと思っていましたが、現実はそうではありませんでした。これまでのやり方は、多文化主義で共にハッピーに暮らせば、お互いにハッピーになるというものでしたが、多文化主義は完全に失敗だったのです。ドイツは、さらに移民を受け入れる前に、統合を拒む者に対してもっと厳しく対処すべきです」

 メルケル首相は、移民の制限自体には消極的といわれていますが、「統合」という言葉を用い、ドイツに暮らしながらドイツ語を学ぼうともしないような者には厳しく対処すべきだと主張したのです。

 こうした両首相の主張の背景には、ヨーロッパ社会全体におけるイスラームや移民への拒否感、抵抗感の拡がりがあることは否めません。今年1月に起きたフランスにおけるホームグロウンテロリストによる新聞社襲撃事件や、「イスラム国(IS)」の蛮行が、こうした風潮をさらに加速させることは十分予想されます。国内のさまざまな人種、民族の多様性とそれぞれの価値を尊重しようという多文化主義は、今や、大きな岐路に立たされているといっても過言ではないでしょう。


 
執筆者紹介
望田研吾(もちだ・けんご)

中村学園大学教育学部教授、中村学園大学大学院教育学研究科長。九州大学名誉教授。教育と医学の会会長。教育学博士。専門は比較教育学。前アジア比較教育学会会長。九州大学大学院人間環境学研究院教授などを経て現職。著書に『現代イギリスの中等教育改革の研究』(九州大学出版会、1996年)、『21世紀の教育改革と教育交流』(編著、東信堂、2010年)など。

 
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