質と量の違いはあれ、人の生に不安はつきまとう。なかでも、子どもの不安はそれを伝える言葉も、さらには対処の仕方も不慣れな故に、子どもにとっては大人が一般的に考える以上に重い負担であろう。
「子どもは責任を負わずともよい、好きに遊べて楽……」という表面的な考えを聞きもする。しかし、生きていく上で子どもはまず社会経済的に大人に頼らざるを得ない。人間関係も受け身的立場から始まるものがほとんどで、能動的に選べるのはかなり長じてからである。未来時間が長くたっぷりあるのはよくもあるが、将来の幸福は約束されてはいない(小学校入学の朝、記念写真を撮ってもらいつつ、「6年間て長いなぁ……、無事に過ぎるのだろうか」と私の念頭を不安が掠めた。事実、四年後、第二次大戦敗戦によって、私個人にとどまらず、わが国全体に対してであるが、予期しなかった大変化を受け止めることを余儀なくされたのである)。恐怖は対象が特定され、不安はより茫漠とした対象をもとに生じるといわれているが、人の感覚上、ことに子どもにとっての不安とは、恐怖と一線を画して分かたれるというより、心細い、寄る辺ない、手がかりがない、見通しがない、ことのわけもよく分からない、自分の努力や力では容易に何ともできかねる、途方に暮れる、といった思いが渾然一体と混じり合ったなんとも恐ろしい切ない感覚にとらわれるということであろう。
子どもにとり、日々の生活は新しい初めての出会いの連続である。それらは好奇心が満たされ、世界が広がり、可能性に目覚める生の歓びをもたらす。しかし反面、生に纏(まつ)わる厳しい本質的事実に次第に気づいていくことにもなる。人は誰しも死ぬ。最愛の人や大事な人とも別れはある。楽しいことが継続する保証はない。人は心変わりすることがある。怠けては志を成しがたいのは当然だが、努力しても希望は必ず叶うとは限らない。天災や事故もある……。
不安に陥る要因は枚挙にいとまがない。けれど、子どもたちは不安を抱きながらも、それに押しつぶされず、よい支えを得て、不安との関わり方を考えるようになり、適切にコントロールし、さらにこの過程を糧にして、精神的に成長していくことをなしている。このよい支えになることとは何であろうか。
それは子どもの傍らに身を添わせる心持ちで、子どもの容易に言葉にしえない不安をくみ取り、それを一緒にそっと抱え励ます心持ちの大人の存在であろう。実は大人とて、常に確実な正解や解決法を持っているわけではない。卑近な例でいえば、自らが生み出した科学技術を自ら十二分に制御し得ないのでは、など、大人も不安に晒されている。だが、徒に軽く表面的な言葉で励ましたり、説得したりするのではなく、不安のあまり、言動を取り乱したりする子どもの内面をくんで、子どもにひとりぼっちの思いを抱かせないようにすることが大切なのだ。
子どもに安心感を贈るには、豊かな知見を持つと共に、大人自身が自分の生を振り返り、独りよがりでない誠意ある生き方をしているかを自問することが求められる。そして、子どもにも人格を認め、人生の先達として子どもの進む道の半歩先に灯を掲げる心持ちと同時に、ともに不安を分かち合い、寄り添う姿勢が求められよう。
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