▼今回の特集は、暴力的な行動を示す子どもの理解と対応である。子どもが暴力的な行動を示さざるをえない場合に、一つの可能性として、発達障害が背景にあるか否かが検討される。発達障害を含め、支援が必要な子どもに適切に応じる教育が「特別支援教育」だ。この教育への理解が広がり、これらの子どもへの具体的支援が充実してきている。それに伴って、「発達障害」という言葉が小・中学校でもよく使われるようになった。
▼「発達障害」への理解の広がりに伴って、いくつかの気になることが生じている。学校生活でのトラブルを安易に「発達障害」につなげていないか。他の子どもと異なる行動を示したり、教師がどう対応すればよいかわからなかったりする場合に、理由がわからず、便利に「発達障害」を使っていないだろうか。そして、わかった気になっていないだろうか。
▼もう一つは、医学的な診断が伴う場合に、「発達障害だから」といって、他の子どもと区別して対応していないか。発達の特性に応じて工夫することは必要だ。それと「障害があるから」と別軸で子どもへの対応を考えることは異なる。
子どもの行動で悩む担任教師が「この子に障害はあるのか」と、白黒つけたい気持ちを訴える。その切実感に、「この子はこちらの子か、あちらの子か」というニュアンスを感じる場合がある。このような二分法で整理して、人は状況を理解したがる。医学的診断が必要な場合もある。しかし、この「A」か「Aでない」かという区別が、学校教育において、「障害だから」という間違った対応を引き起こす。
▼大学の授業で「障害」について話をする際には、本人の「困難さ」が大切だとしている。
明らかに支援を必要とする人や、その時は支援を必要としない人は存在する。しかし、どこかに線を引いて二分割できるものではない。行動特性が判断基準の場合には、当然だが二分割できない「グレーゾーン」が生じる。もっと大切なのは、この困難さは連続的である点だ。特に学校教育においては、困難さの有無ではなく、その程度が重要となる。困難さの程度に応じて適切な支援が求められる。障害がなくても、困難さが大きい場合もある。
▼さて「間違った対応」とは何か。合理的でない障害を理由とする差別的な対応だ。障害は特性であり、その本体となるのは子どもの存在だ。様々な経験をして学び、力をつけていくということが共通している存在である。
そして、すべての子どもに必要な力がある。自分の感情に気づく、自分の気持ちを表現する、場合によれば我慢する力である。子どもによってその力の強弱や発達特性の違いはあるが、諦めずにその子なりの力を伸ばしたい。
「障害だから」といって大人が諦めてしまい、子どもがこういった力をつける機会を奪ってしまっていることがあってはならない。
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