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立ち読み  
編集後記  第61巻1号 2013年1月
 

▼近年、幸福はただ個人の内に感じられ、その本質をめぐり語られるものから、他者によって測られるものになりつつある。ひとまずそれぞれ「幸福感」、「幸福論」、「幸福度」と呼び分けておこう。「幸福感」は個人の主観的な感覚や判断に基づく満ち足りたこころの状態で、「幸福度」はそうした状態を比較、測定するために特定の尺度により数量化された客観的指標といえる。本号特集の「子どもの幸福度」も後者に入る。子どものためを思って作られた尺度なのだが、日頃から人びとの生きられた経験をそれぞれの現実に即して理解するべく苦労している者としてこの種の指標にはどうも慎重になってしまう。

▼主観的であれ客観的であれ、日々成長し移ろう子どものこころの状態を的確にとらえるのは、誰にとっても難儀なことだ。
 「幸福だから笑うわけではない。むしろ笑うから幸福なのだ」
 幼い子どもの笑いと幸福の関係を述べた哲学者アランの言葉は、おとなが用意した勝手な理屈をひらりひらりとかわして生きる子どもの姿を深い部分で言い当てている。ちなみにこれは古今東西の賢人が人間の幸福の本質を論ずるいわゆる「幸福論」のひとつである。

▼さておとなが作りあげた子どもの幸、不幸の指標に関連するものとしていわゆる「三歳児神話」というものがある。母と子の密な(身体的な)相互関係を知らず知らずに強要するこの考え方は、イギリスの児童精神医学者ボウルビィの愛着理論を日本の子育て文化に合わせて都合よく解釈し、母親の不安をあおる素朴理論ということで子育て研究者の評判はかんばしくない。この神話(指標)の問題点は個々の母親の事情や社会環境の変化を度外視し、その通りにやった/やらないで「幸せな子ども」と「可哀想な子ども」、「良い母親」と「ひどい母親」を作り出してしまうことだ。自分たちがつくった神話で自分たちが呪縛される何とも皮肉なはなしである。

▼呪縛というほど大げさではないが、かのシルクロードの地で子どもを布でぐるぐる巻きにする子育て習俗(スワドリング)に出会ったときのこと、筆者はおもわず「可哀想な子ども」という印象を抱いたことを憶えている。しかしいま手元の写真を見ると、若い母親のやわらかな笑みやきょとんとした子どもの表情に憂いは見えない。後日、この子育てが母親の育児負担や身体接触の強要を再考し、夫や他の親族あるいは地域全体に開かれた子育てをうながす視点を提供する習俗と知るに及び、あらためて他者理解における生活文脈の大切さを思い知った。
 母親のおんぶや抱っこといった濃密な母子関係はどこの誰にとっても正しいとする思い込みは、研究者の自分にも染みついていたようだ。生きられた経験としての幸不幸は、生きられた個々の生活の文脈に基づく。文脈を取り去った指標からは見えてこない人びと/子どもの経験の理解に今後もこだわってゆきたい。
 弊誌新年号をお届けするにあたり、本年が皆さまにとって幸福な一年となりますよう心より祈念申し上げます。

 

(坂元一光)
 
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