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オリジナル連載(2006年5月15日更新)

福沢諭吉の出版事業 福沢屋諭吉
〜慶應義塾大学出版会のルーツを探る〜

第15回:「福沢屋諭吉」三田へ!(その2)

 

目次一覧


前回 第14回
「福沢屋諭吉」三田へ!(その1)

次回 第16回
『学問のすゝめ』刊行!

本連載は第40回を持ちまして終了となりました。長らくご愛読いただきありがとうございました。

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 明治3年、三田への移転を考えていた福沢諭吉に転がり込んできた思わぬ幸運とは、他ならぬ東京府からの依頼で市中の治安に関するものであった。当時の東京の取締は、巡邏(じゅんら)が担当していた。この巡邏とは、明治2年から諸藩の兵士が府兵として、鉄砲を担ぎながら市中を巡回して治安警備にあたっていたものである。いわば準戦時体制下、いかにも殺風景でまるで戦地のようでもあった。政府・東京府としては、近代日本の首都にふさわしい西洋風の警察制度を導入しようと考えたものの、残念ながら欧米の警察に関する知識がほとんどない。そこで白羽の矢が立ったのが、当時すでに3度も欧米経験がある福沢諭吉! このような経緯で福沢に対して調査依頼が舞い込んできたのである。まさに「棚から牡丹餅」とはこのことで、ここで政府・東京府に恩を売っておけば、三田の土地の件も上手くいくにちがいないと、喜び勇んで取り掛かる。福沢にとっては得意の翻訳も、より一層の力が込められたことであろう。

 そうして出来上がったのが、『取締之法(とりしまりのほう)』。早速、福沢から東京府に納入された。その内容は、英米仏各国の取締法の変遷と特徴を概観した上で、ロンドン・パリ・ニューヨークの各都市の警察組織の比較表、ロンドン・ニューヨークの犯罪者の統計表から構成されている。これを受けて、翌明治4年に川路利良(かわじとしよし)によって巡邏(じゅんら)が廃止されて新たに3000人の邏卒(らそつ)が組織され、棍棒(こんぼう)を持って取締にあたることになった。さらに明治5年、江藤新平司法卿(えとうしんぺいしほうきょう)により警察組織が整備されたのに伴って、この巡邏が巡査となった。もっとも、この『取締之法』は手書きで一部しか作成されずに東京府へ納められたので、一般読者の目に触れることは一切なかった。「福沢屋諭吉」による「出版」とは厳密には言い難いが、日本の近代警察制度の誕生に福沢も一役買ったわけである。

 もちろん、お上に対してただでは協力しないのが福沢諭吉! 前述の工作活動(この連載の第14回目をご参照のほど)に加えてこの『取締之法』が絶大な効果を発揮したのかどうか、明治3年11月に東京府から福沢に対して、土地の拝借許可があっさりと下される。さすがに大名屋敷だけあって、その広さは何と1万4千坪余に建物769坪余(御殿2棟と長屋数棟)。早速、明治4年の1月〜3月に新銭座から三田への大規模な引越しが行われた。

旧島原藩邸玄関

 このようにして首尾よく土地の借り入れに成功したものの、福沢にとって気がかりなことは、借りた物はいつかは返さなくてはならないという点。そこで今度は何とかこの土地を自分の所有物にできないかと思い立ち、左院議員を始めとしてまたもや政府関係者の間を回って払い下げの工作活動を展開する。そして明治5年、政府内部に市中拝借地の払い下げの動きがあるとの情報を得た福沢は、東京府の担当課長の私宅にまで押しかけて行って手筈を整えた上、発令当日になると間髪を入れずに代金を上納して、とうとう私有地にすることに成功した。その後、旧島原藩士の中からこの土地を取り戻そうとする動きもあったが、まさに「後の祭」で福沢は頑として受け付けない。このような一連の土地取得に関する福沢の精力的な動きを見てみると、とても「商売に不案内」(この連載の第2回目をご参照のほど)とは言えない福沢のもう一つの顔が浮かび上がってくる。

 後に福沢は三田の土地について、『福翁自伝』の中で次のように振り返っている。

  今日になってみれば、東京中を尋ね回っても慶應義塾の地所と甲乙を争う屋敷は一ヵ所もない。正味一万四千坪、土地は高燥にして平面、海に面して前に遮(さえぎ)るものなし、空気清く眺望佳なり、義塾唯一の資産…。

 それから現在に至るまで130年余り。海こそ見えなくなってしまったものの、三田の校地は慶應義塾の中心として今でも存在し続けている。

 さて、それでは新天地の三田における「福沢屋諭吉」の活動はいかに? それはまた、次回のお楽しみに…。

   
【写真】旧島原藩邸玄関(『慶應義塾百年史 上巻』328ページ)
著者プロフィール:日朝秀宜(ひあさ・ひでのり)
1967年生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科史学専攻博士課程単位取得退学。専攻は日本近代史。現在、日本女子大学附属高等学校教諭、日本女子大学講師、慶應義塾大学講師、東京家政学院大学講師。
福沢についての論考は、「音羽屋の「風船乗評判高閣」」『福沢手帖』111号(2001年12月)、「「北京夢枕」始末」『福沢手帖』119号(2003年12月)、「適塾の「ヲタマ杓子」再び集う」『福沢手帖』127号(2005年12月)、「「デジタルで読む福澤諭吉」体験記」『福沢手帖』140号(2009年3月)など。
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