三田評論2006年10月号 執筆ノートより
小川原 正道
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明治初年の『慶應義塾入社帳』を繰っていると、気が付くことがある。身分欄に「華族」と記された名前が多いことで、その数は明治九年までに六十名にのぼっている。松平、酒井、榊原、牧野など、譜代の藩主経験者が多く、戊辰戦争では徳川方について処分を受けた諸藩が目立つ。
幕末の動乱や藩政に苦悶し、やがて廃藩置県で上京した傷心の旧藩主たちは、いかなる思いでかつての家臣と机を並べ、新時代の学問を学ぼうとしたのか。その競争に打ち勝ち、維新後も活躍した人物がいたなら、彼を支えたものは何だったのか―。そんな問いを抱きながら、私は岸和田藩最後の藩主・岡部長職(ながもと)の生涯をたどりはじめた。
藩主嫡男として生まれた長職は、儒学を中心とした帝王教育を受け、やがて藩主として幕末の難局に当たった。しかし彼が統治者となってまもなく、殿様の時代は終わりを告げる。明治維新は十六歳の長職を一介の書生へと変貌させ、慶應義塾へといざなうこととなった。その背後には、華族(旧諸侯と旧公卿)が洋学を身につけて国家に寄与するよう求めた勅諭が存していた。彼らは「皇室の藩※(はんぺい)」として新たな使命を与えられ、克己の道を歩みだしていったのである。長職もまた義塾を経て米国イエール大学に留学、やがて新知識を身につけたエリートとしてデビューしていく。外務次官、貴族院議員、東京府知事、司法大臣など、歴任した要職は多い。
時代が、社会全体に「近代」への「変貌」をもたらしつつ、なお、「近世」の権力者を華族とし、新たな使命を託して「存続」させたように、長職もまた、その心中に「変貌」と「存続」を並存させた。国内外で英語や心理学を学び、キリスト者となり、新時代のエリートとなった彼だが、岡部家の家訓を忘れることはなかったし、武士のたしなみである謡曲や漢詩をうたい続け、その視野から、治めるべき民の姿を消すこともなかった。
殿様としての経験や鷹揚さと、留学で蓄えた近代的知見とは、彼が周囲に発し続けた魅力であり、その二面性が、彼の可能性をひらいていった。華族の退廃ぶりを難じ続けた福澤諭吉も、長職の行状をよしとし、留学の世話を焼いている。
岡部長職と同じく、二十代で慶應義塾、米国で学ぶ機会を得た私は、彼の現地での足跡をたどり、変化の時代を生きたエリートの変貌や矜持といったものを考えながら、執筆に取り組んだ。本書が、これまで十分研究が進捗してこなかった「最後の藩主」と、それを取り巻く社会環境の考察に一石を投じ、同じく変化の時代に生きる私たち現代人に何かを語ることができれば、幸いである。
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