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西脇順三郎コレクション

ウェブでしか読めない 西脇順三郎

回想の西脇順三郎

学匠西脇先生

 

由良 君美
 
 
 

わたくし達は第二次大戦後に、西脇先生から教えをうけた世代に属するが、それでも、昭和初年に、帰朝直後の西脇先生から教えをうけた人たちの感じたであろう新鮮な衝撃は、充分に理解することができる。

 

かつて西脇先生は、ある戦後の文章のなかで、いかに汲々として英語の韻律法を暗記し、ウォルター・ペイターの蜿々たる美文を範として真似し、これらを典範としてイギリスに行ったところ、彼の地では、いまや文学の風土はがらりと変わっており、韻律法もペイターも、何の価値もないものとされるに至っていることを知り、「痛ましいばかりに落胆」された次第を、乾いた筆致で見事に描破されたことがあった。

 

久しきにわたるロマン主義の支配から、欧米は自然主義の時代を経過して、そのあと、ダダイズム、未来派、シュルレアリスムをくぐりぬけ、総じて、主知主義的傾向に向かおうとする時代――おそらく、イギリス文学が、最後の世界主導権を発揮しえた最も幸福なりし時代に、西脇先生は親しくイギリスの土地を踏まれたのだ。つまり、ジォイス、パウンド、T・S・エリオット、ウィンダム・ルイスの風土のイギリスに。

 

今日、〈モダ二ズム〉の名のもとに総括されるこれらの人びとの名前であるが、20世紀文学が、少なくとも19世紀文学と異なる何かを主張しえたとすれば、それは、これらモダニズムの人びとの仕事によってであったことを、80年代に生きるわれわれは、謙虚に認めないわけにゆかない。

 

わたしはイギリスの土を踏んだことはないが、それでも、若い西脇先生の「痛ましいばかりの落胆」は、わがことのように良く理解できる。

 

わたしの英文学修業は、全くの独学であった。中学、高校での英文学独学は、日本で出ていた英文学書に依らざるを得なかったから、わたしの英文学は当然、上田敏→ラフカディオハーン→平田禿木→竹友藻風→矢野峰人の系統を主軸にしていた。つまり、ロマン主義、ヴィクトリアン、ジョージアンを主とし、世紀末唯美派をその最頂点と解する、ある英文学の摂取法であった。土居光知→工藤好美の緻密な路線も、わたしには主として、ペイターをめぐる問題として諒解され、堀大司の仕事もその路線にならうものとして受納され、現代性のレヴェルは深瀬基寛に負うところが多かった。

 

そうした高校生の或る日、わたしは、西脇順三郎著『ヨーロッパ文学』に出会わなければならなかったのであった。旧制成蹊高等学校は、イギリス・リベラリズムの遺制の残る学校で、第二次大戦中とはいっても、文化的には著しく寛容な学校だった。つまらない東洋史の講義を失敬して、自転車に乗ってマントをひるがえしながら古本屋通いをしていた。当時の中央線沿線の古書店は、正に宝庫で、どんな田圃のなかの猫の額のような古本屋でも、震いつきたいような稀本があった。たとえば、上石神井駅の脇に、二畳ぐらいの古本屋があったが、ここには、当時、外国語学校が近くにあった関係で、内儀さんが病気で困っている先生が置いていったリチャード・ジェフリーズの上製本が、ズラリとならんでいたりした。吉祥寺の踏切を渡って、井の頭公園口を右に廻ると、ここにも二畳ぐらいの古本屋があって、時々、中原中也の初版本を雑本同様に置いていた。そこで見つけたのが『ヨーロッパ文学』の昭和8年5月初版本で、生憎、喪中であった。昨日、日夏政之介『転身之頌』を売ってくれたばかりの主人が、今朝亡くなったという。お焼香をして、小さな仏壇の前を見ると、立派な函入りの大冊が供えてある。聞けば、主人が大切にしていた本だという。浅からぬ縁だし、曩中の一切を仏前に捧げてもらって来たのが、『ヨーロッパ文学』という、ずっしりと手にこたえる一巻であった。

 

700ページに及ぼうとするこの大冊を、ともかく読了するのに、どれだけの時間がかかったか、今はもう想いだせない。

 

しかし、とにかく、わたしにとって、この大冊は、完全な回心を用意した。正しく、「痛ましいばかりの落胆」であったことは、確実だった。

 

そう――その衝撃を、わたくしは今、何と表現したら良いのか知らない。恐らく、佐藤朔先生、亡き三浦孝之助先生ならば、ご自分の体験のままに、正しく表現できる事柄だろう。

 

わたくしは心底愕いたのだ。どうしようもなかった。今までの自分の、自分なりの努力が、何の意味もなかったことを教えられたものの驚愕――これは、小さいものではなかった。

 

もちろん、それまでに、わたくしだって、北村常夫訳のエリオットの選集は読んでいたし、『ユリシーズ』の多人数訳も読んでいたし、春山行夫の『ジォイス中心の文芸運動』も読んでいた。しかし、要するに、これらが、なぜ〈モダ二ズム〉と言われるほど新しい運動であるのかは、何も分かっていなかったのだ。

 

西脇学匠は、のちに、わたくしが、親しく教えを受けるようになったとき、ただ一言で、わたくしの感性をねじ曲げる決定的な言葉を吐かれた。

《君、君の美学は〈ホノカナル式ですね〉、ちがいますよ!》、と。

 

そのとき、わたしくの鈍い頭にも、ようやく、あることが分かってきた。美的表現型式としての、〈新古今調のホノカナル式〉を、実に巧みに、ヨーロッパ・シンボリズムの〈翻訳形式〉に乗せえた上田敏が、いかに、ジョージアンの日曜画家的美学と、非本質的な雑婚をとげることで、蒲原有明の象徴主義を産んだかを。

 

それからというもの、日本英文学半世紀の歴史との溯行的な格闘になった。その戦いが山田美妙にまでとどくころ、西脇先生そのものが次第に変わってきた。  

そう、西脇先生は、『第三の神話』以降の、もう一まわり大きな、伝統と如何に折り合うかという大問題に、真剣に取り組む先生に変貌しておられた。  

この頃、先生に、親しくお教えを受けるに至ったわたしは、果たして、幸福だったのかどうか、速断は全く許されない。

 

ただ、ひとつ言えるのは、先生のT・S・エリオット『荒地』の御訳に、全く、湯気の立つ状態で、わたくしは接し得たという、生涯の幸福をもてたことだ。  

西脇先生のような翻訳の達人を、わたくしは知らないが、先生の翻訳といえば、本当に僅かしかない。そう、『アムバルヴァ(ワ+゛)リア』のなかのもの、『ジォイス詩抄』、そして、この『荒地』。

 

ある朝、土居光知老人が、学習院大学の大講堂で、気色ばんで行った大講義のことを思いだす。わたくしは、そのころ哲学科を卒業して、英文科に入り直し、この大講義を聞いていた。『荒地』の〈時―空〉の統一原理が、タイレーシアスにあるという、その分析の細部は、まことに周到であり、まことに見事という他はなかった。わたしは土居先生に兜をぬぐ想いであった。

 

ところが、そのあとに来た土居先生の西脇学匠批判の、何とお粗末であったこと、わたくしはほとんど、〈アッ!〉と叫びたいほどであった。

 

《慶應の西脇教授の、今回の『荒地』の訳は、まことに、素晴らしい出来栄えである。その訳し落としの部分さえ、原文への批判かと思えるほど、まことに見事である。しかし、わたしは、西脇教授の、「あとがき」の一文には全く同ずることができない。西脇教授は、『荒地』をエリオットの、全くのふざけたものとして極上のもの、と言っておられる。これは違う。『荒地』はエリオットの、正しく、真剣な、現代批判として読まれねばならぬ。これほど見事な訳をされる西脇教授が、かかる不真面目な言辞を口にされるとは、何とも残念なことである……》

 

わたくしは、あっけにとられた。土居光知教授に楯突くつもりは、さらさらないが、西脇先生の、この遊びの精神なしに、どうして、ここまで、エリオットの精随を日大語にすることができたであろうか――と。

 

ことは〈モダニズム〉の本領にまで、多分かかわる事柄であろう。一体、人間は、どこまで、人間の尊厳を、修身し、或いは風刺しうるものか……?  

〈モダ二ズム〉は人間の尊厳を徹底的に笑い、それにより、人間を、いっそう強固なものにしようとした。

 

しかし、人間の、もう一方の極は、残念ながら〈感傷〉である。つまり、西脇学匠が、『ヨーロッパ文学』以来、あれほど、吠笑して止まなかった〈感傷〉なのである。もちろん、感傷には二極がある。感情の極と、自然の極と。どちらも、全く下らない。人間は知性の極の下に、気取りとして感傷するならば良いが、そうではなく、この、いずれかの二極に引きずられるとき、全く、下らない、手のつけられない存在に堕するものである。

 

大冊『ヨーロッパ文学』は、大略そのような感傷性への防波堤を、実に悠々と、しかも堅固に構築するものであるように思われた。

 

英学100年という。よかろう。では、アンリ・ブレモンの言うように、この百年の英学史を、100年の〈感性史〉として明晰に提示しうる自信があるか。  

あるとすれば、それは、ロマン派→ヴィクトリアン→ジョージアンの感性史を、いかに〈モダニズム〉が覆しえたかを、日本人の一生活史として語りうる人でしかあるまい。そして、その人の名は、西脇順三郎をおいて、他にないことは、誰の目にも明らかであろう。

 

西脇順三郎は、日本英学史の感性革命を、本当の意味でなしとげた、唯一の現存の人物である。

 

さらに西脇学匠は、近世英学の追随に必死であった日本の英学に対して、〈モダニズム〉の近代相に照準を合わせるための革命をなしとげると同時に、英学の本道たる〈古代・中世学〉に向かっての学問の裾野の拡大を身をもって行った。

 

西脇学匠の帰朝とともに、本格的日本英学の基礎作業が、古代・中世へと裾野を拡大し、今日の日本英学の基礎構築が成立したことを、誰が疑う者があろうか。  

出藍の弟子である厨川文夫先生の『べオウルフ』『アーサー王物語』『完徳八章』等の諸業績も、学匠西脇の、古代から超現代にわたる英学の全般的基礎を、上田敏からラフカディオハーンにいたる日本的英学移入に対して、多くの誤解と誹読を覚悟の上で、本格的に根づけ、さらには、西脇学匠詩人の、最後の願いである、それら西欧的なるものの一切を、日本人の詩的感性の土壌に、折り合わせ、根づけ、さらなる育成を願うという恬大なる理想を、最も良く理解した後進の歩みでなくて、一体、何であったであろう。

 

『ヨーロッパ文学』は、20世紀文学をめぐるさまざまの本質的問題を究明した果てに、その第1節は、「中世紀文学成立組織に関する根本問題」と題する、最も複雑かつ基礎的な問いを提起する文章で終わる。

 

当時の日本官学で、この問いを発しうるものが、果たしてあったであろうか。

 

『ヨーロッパ文学』の第2節は、さらに、西脇学匠の独壇場である。ロレンス、ジォイス、エリオットを縦横に論じ、メタフィジカルポエッツを、ゴンゴリスムからマニエリスムに溯って説く西脇学匠の想念の博引旁証は、当時のヨーロッパの、どの著作を尋ねても、これに匹敵しうるものはない。

この書と、『超現実主義詩論』との2著とを、鼻さきにぶら下げられた世代の驚きは、わたくしたちのように、より世代を経て、鈍化された者たちにとっても、まことに、他人事(ひとごと)ならず、あざやかなものをもっている。

 

『ヨーロッパ文学』が昭和8年の初版だったとすれば、『現代英吉利文学』は翌年9月の初版だ。ここでは、パウンドの仕事のはでやかさが、読む人をいっそう把えたことだろう。しかし、英語学者、中世学者西脇のイメージは、詩人西脇のモダ二ズムの蔭に、いっそう隠されたかも知れない。しかし、研究社評伝叢書『ラングランド』で、中世語学者西脇のイメージは、改めて前面にでる。ここで、カール・フォスラーのダンテ研究に現れた広大な中世学の世界を、当時の水準で楽々と我がものにしていた学匠西脇の姿は、いささか日本英学の水準を遥かに遠く飛翔していた感がある。

 

『英米思想史』も、小冊ではあるが、学匠西脇の本領であろう。神→人間→自然という展開法は、1926年のH・V・ラウスの名著『神・人間・叙事詩』の下敷きを類推させるが、ラウスよりも、遥かに自在な手さばきを想わせる。

 

さて戦後、学匠西脇の英学は、本人の自作詩の世界が、〈西脇詩〉として独自の世界を日本現代詩界に確立されるに及び、ますます自由というか、融通無礙なものになった。博士論文『幻影の人』によって、ほとんど民間語源学に接せんばかりの奔放なファンタジーによって、自己の古代学幻想に組織を与えた自信も伴って、著しく西脇学匠の世界は、現代言語学の科学的リゴリズムから離れて、自由に飛翔したかに思われる。  

『梨の女』『斜塔の迷信』『居酒屋の文学論』『メモリとヴィジョン』などは、これらのこだわりのなさが、まこと美しい表題の選択となってあらわれている。  

日本の近代英学書の表題は、伝統的に、詩味の払底にその特色があるが、これら後期西脇の諸書の表題の詩味は、それら自体、その詩味において、最高の雅趣を誇りうるものとして、まこと本邦現代文学の稀種とされるに足る。

 

詩人としての実践の偉業は言うまい。他の人が論じられるから。

 

西脇学匠は、詩人としての裏付けを、何ら誇ることなく、むしろ抑えつつ、明治からジョージアンの日本英学の趣味の固着を、特有の日本語修辞によって爆発させ、日本英学をモダニズム相に連結し、古代中世学の枠組みのなかに日本英学を安定させ、さて、創作者にして学匠である苦しみを、楽々たる自己風刺に転じ、洋の東西を超えでた稀有の「古代の春」を歌いでることのできた、恐らく、不世出の天才であると、わたくしは思う。

 

《追記》

 

公的には、西脇先生の出現によって日本英文学は、ロマン派から世紀末唯美主義を経てジョージアンに至る路線に安住する趣味の基準を破られ、言語学を中心とする古代中世英文学研究を英学の根幹とする《フィロロジー》中心の学風の正当性を教えられた。これは、大きな眼で見て、日本美学の革命であったといえよう。シュルレアリスム詩人としての先生に憧れて、現代詩学をたっぷり学ぼうとして先生の講筵に列したわたくしが、まず第一に驚いたのは、印欧言語学と古代中世英語学、ヘンリー・スウィートとH・C・ワイルドを中心とする英語学、〈文体〉の問題を中心とする修辞学の3点に、何よりも集中する西脇先生の講義態度であった。ここには現代詩人としての先生の姿は、全く認められないほど、それは正統派イングランドの英国式フィロローグの厳しい姿勢であった。

 

それと併行して、もう一人の西脇学匠がある。ロマン派から世紀末唯美派を経てジョージアンに至る路線の代替物として、17世紀形而上詩派(それも、とくにゴンゴリスム)からドライデンを経由してフランス・サンボリスムに至り、20世紀初頭のイギリス主知派に結実する趣味の路線を、日本に植えつけようとされる他の面であった。これは、T・S・エリオットの同時代人として、エリオットを深く理解しながら、なお、ジョン・コリアーの友人として、エリオットよりも一層深く、現代相に徹しようとした西脇先生の、もう一つの面であった。この面は、先生の詩人としての実践と密接にからみ合っている。『超現実主義詩論』に最初に結実し、やがて『詩学』に集大成される西脇美学は、新体詩以降のそれまでの日本になかった、全くあらたな現代相を、日本人の趣味のなかにもたらした。

 

後世の学者は、いずれ解き明かすであろうが、三田英学史上での西脇先生の前任者であったヨネ・ノグチは、西脇先生の真の世界性の前には、まことに迷惑な存在であったと思われるが、それでも、ヨネ・ノグチは、近代日本の新体詩の〈ホノカナル式〉の修辞を、大胆に否定したことの功績は認められねばなるまい。しかし、ヨネ・ノグチの美学は、E・A・ポオどまりであった。西脇学匠は、この点を、ギリシアからゴンゴリスムを経てポオに歪曲されながらフランス象徴派に至り、ヴァレリーとエリオットの同時代人的消化に及ぶ西欧詩の正統のトポスを、いっそう深く自己の骨肉と化して日本に根付けることができた。

 

西脇学匠の趣味の革命は、この点においても、日本英学史上、画期的なものがあったといえる。

 

また、後半生における西脇先生の仕事は、その独自のシュルレアリスムを日本の、或いは東洋の伝統と、いかに折り合わすかの、大きな実験に捧げられた。かつて日本モダニズムが初期、横光利一の路線において挫折したあと、この問題は誰の手にも余る課題として残ったのであるが、『禮記』以来の西脇先生の歩みは『人類』に至って、ほぼこの課題への回答を用意し得たと、わたくしは見るものである。

 

西脇学匠のプロテウス的な変幻ぶりについては、多くの論者がこれまで筆をついやして来たが、数あるその変幻のなかで、この最後の点こそ、実は学匠としての西脇先生の最大の日本英学への貢献であったことが、やがて理解される日も遠からず来ることであろう。

(英文学者)

*本エッセイは、安東伸介ほか編『回想の西脇順三郎』慶應義塾三田文学ライブラリー、1984年より転載した。転載にあたっては、著作権継承者の了解を得た。

*読みやすさを考慮して、本来の漢数字表記を算用数字に改めた。


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