私の専門は私の専門は「流体力学」である。流体力学は空気や水がどのように流れるかを調べる学問であり、飛行機の翼設計はもとより天気予報や空調等、様々なところにその知見が利用されている。
気体・液体の流れのほとんどは乱れており、「乱流」と呼ばれる。人がタバコを吸いながら歩いたとき、はき出された煙は、乱れた空気の流れを見せてくれる。それが身近にある乱流の一例である。
私がこれまで研究してきたテーマは「乱流のモデル化」である。乱流とは、大小様々な渦が入り乱れ変動する流れであり、その振る舞いを予測することは単に物理的な興味を喚起するだけでなく、実用上も大変重要である。例えば、台風の進路予測は乱流が関与する切実な問題である。
しかし乱流すべての運動を知ることは困難であり、平均的な振る舞いを予測するためには、平均からずれた流れのモデル化が必要となる。これが「乱流のモデル化」である。
慶應義塾大学塾派遣留学という制度により、二〇〇〇年三月末から二年間、私は海外で研究できる幸運に恵まれた。どこで何を研究しても良いという、とてもおおらかな制度である。
研究テーマは「燃焼乱流のモデル化」と決めた。燃焼乱流とは、燃料と酸素が化学反応を起こすことによって熱が生じ、その結果発生する気体の流れのことである。エンジンの中で爆発が起こってピストンが動くときもこの流れが現れる。また、火災が発生して延焼していく際、助かるためにはどちらに逃げればいいのか、といった問題も燃焼乱流の研究に含まれる。
燃焼乱流は、大小様々な渦からなる乱流に加えて、化学反応というミクロな別の現象が関与する、とても複雑な流れである。「乱流のモデル化」をこれまで研究してきた私にとっても、これは挑戦に値するテーマであった。
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ケム川と数学橋
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工学部
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研究する場所を決めるにあたって二つ候補があった。イギリスかアメリカである。アメリカのUCサンディエゴはコンピュータを駆使した研究が盛んである。一方イギリス、特にケンブリッジ大学は解析的研究が大変優れている。
思案の末にイギリスに決めて、さっそくケンブリッジ大学工学部に受け入れてもらえるかどうかを電子メールで問い合わせてみた。「あなたの研究業績から判断すると、共同研究できるテーマがたくさんあるので歓迎します」という返事だった。
留学の半年ほど前、一九九九年夏にケンブリッジを訪れる機会があった。工学部はトランピントン通りに面しており、ミイラも展示しているフィッツウイリアム博物館と、アフタヌーンティーで有名なロイヤルケンブリッジホテルの間にある。
他のコレッジと比べるとかなり近代的であるが、頑丈で飾り気のない、いかにも工学部という風貌の建物の中に、ケンブリッジ大学の紋章が重厚な光を放っていた。工学部なので、自動車メーカーのロールスロイス社とエンジンの共同研究など、かなり実用的な研究も行われているようだった。
かくして私は、ケンブリッジ大学工学部CFD研究室で「燃焼乱流のモデル化」をテーマとして研究することになった。しかし、渡英の前に準備することもう一つがあった。
どこかのコレッジに所属することである。コレッジのメンバーになれば、ケンブリッジ大学を知る上でも良いし、また住まいも貸与してくれる可能性があるとのことであった。
ケンブリッジ大学はコレッジと学部の二重構造になっている。この関係はいまだに良くわからないのだが、三十一あるコレッジは独立採算で成り立っているのが特徴的である。そのためにコレッジは教育や研究以外でも多角経営している。
コレッジの建物が結婚式場として新聞広告に出ていたりするし、チャペルで有料のコンサートも頻繁に行われる。
あるいは、コレッジに必ずいるバーサー(会計担当)の仕事として、土地や株に投資したりして収益もあげているようである。経済学者として有名なケインズは、キングズコレッジのバーサーであった。
学部の学生は基本的にコレッジに住み、食事もそこでとる。多くのコレッジは、図書館、チャペル、スポーツ施設、そしてバー等の娯楽施設も備えている。つまり、学生にとってコレッジは生活の場でもある。
また、独身の教員も希望すればコレッジで住と食が賄われる。その昔、教員は僧侶のような存在で、妻帯は許されなかったために、このようなシステムになったのであろう。
ほとんどの教員は学部とコレッジに所属し、学部ではもちろん、コレッジでも学生を教育している。
ケンブリッジ大学が誇るコレッジでの教育、スーパーヴィジョンである。これは、教員が家庭教師のように少人数の学生を対象におこなう授業である。
学生も質問しやすいし、教師も学生それぞれの理解度に合わせて指導できる。コストはかかるが、質の高い教育システムである。日本の大学院における私自身の経験からも、隣の部屋に指導教授が居るという環境が貴重であった。
学位は大学から与えられるが、コレッジの存在が日本の大学と大いに違う点であろう。言い換えればコレッジこそがケンブリッジ大学独特の組織なのである。
私は研究もさることながら、ケンブリッジ大学自体の伝統や風習を知りたかったので、ぜひどこかのコレッジに所属したいと考えた。
そこで、訪問研究者をメンバーとして受け入れてくれるコレッジをインターネットで探したのだが、ほとんどのコレッジは公募していなかった。
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クレアホール
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それでも一つだけ、クレアホールというコレッジのホームページにはその募集要項が載っていた。このコレッジは、伝統あるクレアコレッジによって一九六六年に設立され、ケンブリッジ大学の独立したコレッジとして一九八四年に認可された比較的新しいものである。
大学図書館に近いケンブリッジ中心西部に位置し、木々が茂りリスや小鹿も見られるハーシェルロードに面している。在籍学生は大学院生のみで、全世界からやってきたこれまでの訪問教授の数はケンブリッジで最も多い、国際的また学際的なコレッジである。家族連れの訪問教授も歓迎し、ダイニングホールでの食事や様々なイベントも家族で参加できるという。
通常のコレッジでは、子供がコレッジに入り教授たちと一緒に食事をとるなどということは許されていない。学生でさえ教授たちと並んで食事することは稀である。
ダイニングホールにはハイテーブルといって一段高い場所があり、教授陣はそこで学生を見下ろしながら食事をするのが通例である。映画「ハリーポッター」に出てくるホグワーツ魔法学校のダイニングホールさながらである。
ところが、クレアホールには子供用のハイチェアーがあってもハイテーブルは無いのである。この点を見ても、クレアホールは非常にインフォーマルでアットホームな異色のコレッジであった。私はクレアホールの訪問教授という資格でコレッジに所属できることになった。
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自宅
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家は、ケンブリッジ大学の訪問学者協会に適当な賃貸物件を紹介してもらった。家のオーナーは大学とは無関係なのだが、訪問学者の多いケンブリッジではそういった一般の物件も無料で紹介してくれるのである。
二〇〇〇年三月三十日、ロンドンヒースロー空港に無事到着した。ケンブリッジに行くにはロンドンスタンステッド空港がもっとも近くて便利なのであるが、日本からは直行便が無かったので、子連れの我々はヒースローを選んだ。空港を出ると肌寒い空気が夕暮れに漂っていた。
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