二〇〇二年三月二十八日(木)。卵をシンボルとするイースター(キリスト教の復活祭)を間もなく迎えようとしていた。その日、「回転卵」の謎に関する私たちの論文が権威ある英国科学雑誌「ネイチャー」に発表される予定であった。
四歳になったばかりの長男をいつもより早く車で保育園に送った後、ケンブリッジ駅へ向かった。そして新聞「タイムズ」を駅の売店で買い求め、ロンドン行きの電車に飛び乗った。「ネイチャー」の論文が、「タイムズ」でも記事になると聞いていたのである。
「タイムズ」のページをそろりそろりとめくる。・・・あった! 二つの手、それぞれの下で卵が回って立っている大きな写真があったのだ。
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「タイムズ」記事
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写真の下にある記事をじっくり読むことが出来たのは、その中にKeith
Moffatt and Yutaka Shimomura の文字を確認した後であった。車内にこもれる朝日が私を暖かく包みこむような気がした。
一時間足らずでロンドンのキングズクロス駅に到着した。電車を降りて駅構内の本屋に立ち寄り、配達されたばかりの「ネイチャー」を見つけた。
早速一冊買って、中身をすぐに見たいという気持ちを抑え、今度はサウスケンジントン目指して地下鉄のピカデリーラインに乗る。科学博物館で、我々の発見をタイムリーに紹介するイベントが開かれることになっていた。
地下鉄の中でおそるおそる「ネイチャー」を開けてみると、目次の欄に私の作った図が目に入った。そしてわずか一ページ半に蒸留された本論文の末尾には二人の名前があった。じっくりと喜びをかみしめる間もなく、地下鉄は目的地に着いた。私にとって忘れ得ぬ日である。
コロンブスは知っていたのだろうか。ゆで卵をテーブルに置いて両端をもって速く回すと、やがて卵は立ち上がる。
碁石やラグビーボール、はたまたレモンやキーウィフルーツ等、楕円形をしている物体であればいかなる物でも同じようなことが起きる。これらは一般に良く知られた現象であるが、重心が重力に抗して上昇する理由が解明できず、物理学の世界で長年、謎とされてきた。
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Keith
Moffatt教授 *1
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バックスから臨む
キングス・コレッジ・チャペル
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私は英国のケンブリッジ大学に研究留学中、このテーマについてキース・モファット教授と共同研究を行った。その結果、回転が速い場合に、運動中一定の値をとる量が一般的に存在することを発見し、この運動を表す方程式の解を得ることに成功した。
その後研究はさらに進展し、新たなメンバーと共に信じがたい現象を予言し、さらに実証した。高速で回すと卵はテーブルから飛び跳ねるのである。回る卵はきわめて小さなジャンプを繰り返しながら立ち上がる。
本書は、物理学の聖地・英国のケンブリッジにおけるモファット教授と私による研究、そして私の所属する慶應義塾大学における研究の物語である。長年解けなかった、「立ち上がる回転ゆで卵」の謎をどのようにして解明したのか、「回転ゆで卵の飛び跳ね」という未知の現象をいかに発見し実証したのか、また、この共同研究で学んだこと、英国留学の様子、日本と英国の違い、そして大学で私が教えていることなども、あわせてお伝えしたい。
素粒子のような極微の世界、あるいは宇宙のような極大の世界を眺めなくても、身の回りを見直せば解明されていない不思議が数多く現れる。咲き誇るバラやチューリップは誰もが知っている美しい花である。しかし、庭のすみっこや歩き慣れている道端に目を向けると、そこにも愛らしい草花がひそやかに咲いているのである。
*1:http://www.damtp.cam.ac.uk/user/hkm2/ より
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