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民族の表象
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『民族の表象―歴史・メディア・国家』
「はじめに」から抜粋

  
 

 

『民族の表象―歴史・メディア・国家』
「はじめに」から抜粋

 




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 問題認識――民族は民族を触発する
 二一世紀に入り、「民族」あるいは「民族問題」が重要なキーワードとして喧伝されている。 特に前世紀末にかけて起こった大規模なヨーロッパの再編成やその結果として出来した悲惨な民族間の争い、アラブ世界やパレスチナ、イスラームなど民族・宗教・地域などが渾然一体となって複雑な様相を見せる中東地域の争い、あるいは巨大ビルの崩壊でなお記憶に新しい「九・一一」など、私たちの目の前ではたしかに「民族」、「民族問題」としてひと括りできそうな事象がたて続けに起こっている。もちろん、それ以外にも火種から活火山的様相にいたるまで世界各地ではいまも「民族」をめぐる多様な問題が多様な形態を取って展開されている。

 だが、それではそもそも「民族」とは何なのだろうか。辞典などによる一般的な理解としては、言語や宗教、慣習など広義の文化的伝統を共有することで時間の経過とともに「同じ先祖」を持つ「同じ仲間」としての意識を持つようになった人間集団が「民族」と呼ばれることが多い。それは社会的な生活を営む場合の基本単位と言うこともできるだろう。しかし、社会生活の基本単位と言っても、たとえば地域的には離れ離れの状態で暮らしながら、なお民族的な一体意識を保持している集団もあれば、同じ社会の中に複数の民族が共存して支障なく社会生活を送っているようなケースもある。民族はもちろん生物学的な意味での「種」とも異なるし、政治的な意味での国民とも一致していない。つまり、ある集団について、いくつかの普遍的・標準的な項目を立ててチェックを行い、その集団が民族か否かを判断することはできないし、逆にその集団だけに特徴的な客観的性質から民族を考えても、これを他の集団に当てはめて分類を行うことは不可能なのである。

 「民族」という言葉と概念には、言語、宗教、慣習ばかりでなく、たしかにある特定の集団の残してきた歴史や彼らの生存を支えてきた地域性、その集団の自己意識や彼らを導くイデオロギー、志向性などが大きな影響を及ぼしており、彼らはそれらを手がかりにして自分たちを一つの「民族」として同定していくわけである。その限りではむしろそれは主観的で恣意的な過程である。

 ただ、この過程は孤独・孤立のうちに進められるものではない。と言うよりも、むしろ外部に何らかの対比的存在を設定することによって「民族」化のプロセスは促進されることが多い。言語、宗教、慣習、歴史、地域性、自己意識、イデオロギー、志向性などを手がかりに自分たちの集団と外部の集団を差別化・差異化して、自分たちに共通する民族性や民族意識を醸成していくのである。その意味では、外部との差別化・差異化によって生まれた内部こそが「民族」なのだと言えるだろう。しかも、このプロセスはただ一方の集団内部だけで進展するものではない。相手からの刺激を受けて、外部として設定された集団においてもまた同様のプロセスが展開されることになる。つまり、ある集団の民族意識が他の集団内部にも新たな民族意識を呼び覚ますことになる――それは相対的な関係である以上、同時に連鎖的な性格を持たざるをえないのである。 一例を挙げるならば、一九世紀後半に一気に浮上してきたチェコ民族主義を思い出しておきたい。ハンガリーがハプスブルク支配からの独立を目指してマジャール民族主義を標榜し、一九世紀半ばに実質的な独立を手にしたとき、これを横目で見ていたチェコ人たちが長年ドイツ系オーストリア人との間に培ってきたボヘミア主義を捨ててチェコ民族主義へと雪崩を打って鞍替えしていった事実からもそれはわかるだろう。

 だが、それでは「民族イメージ」はどのようにして生み出されるのだろうか。「民族」化の過程のなかで手がかりとして機能した要素は、おそらくその集団内部の自己認識・自己理解を背景とした自己イメージとして受け止めることができるだろう。だが、このプロセス自体がはじめから外部を想定している以上、つまり 外部集団との差別化・差異化が目的である以上、これらの要素はそのまま外部集団にも当てはめられることになる。そのとき、それぞれの集団のなかでは内部としての自己理解的な民族イメージと共に、同じフィルターを通じて見た外部集団に対するイメージも形成されるのである。こうしたイメージは、それぞれの集団の政治的あるいは文化的勢力が拮抗していれば、危うい均衡関係のうちにそれぞれの集団内部に潜在を続け、せいぜいパーティ席うえでのジョークとして語られるにすぎないだろう。だが、何らかの理由で両者の関係が緊迫すれば、それはたやすく戦いの種ともなってしまう。また、同じことが社会的、政治的に見てマジョリティとマイノリティの関係にある集団間に起こる場合、それは深刻な「いじめ」の様相を呈することになるだろう。必ずしも適切ではないかもしれないが、前者の例としては欧米世界とイスラーム世界、後者の場合ならば欧米世界とユダヤ人の関係を挙げることができるだろう。

作業仮説――民族と民族イメージ
このように相対的な言葉・概念である「民族」を扱おうとするならば、どのような視座・観点からこれを扱うことで問題の本質に迫ることができるのだろうか。そこで私たちは一つの作業仮説を立て、その有効性・射程距離を測るという実験を行うことで問題理解の可能性を模索することにした。

だが、私たちの作業仮説に触れる前に、もう一度「民族」をめぐる一般的な理解や立場をまとめておきたい。というのも、実はここまでの叙述においては「民族」に関する二つの異なる理解・立場が混じりあっていたからである。ひとつは伝統的な見方である。すなわち、「民族」を言語・宗教・歴史・慣習・血縁的なつながり・領土などを共通の基盤として持つ人間社会の自然で基本的な単位と考える立場である。これに対し、チェコ民族主義に見られるように、「民族」とは近代に入り、国民(民族)国家の成立と共に現れたまったく新しい集団意識であり、政治的要因や社会的要因によって作り出されたものとする立場がある。この二つは分けて考えなければならないのである。

 なお、ここで付言しておけば、私たちが「民族」という言葉を用いる場合、そこには小規模な部族(種族)的集団を単位とする「エスニック共同体」も含まれている。より正確に言えば、その切っかけが何であるにせよ、「民族」化のプロセスが進行しはじめる以前の集団のあり方を「エスニック共同体」と捉えている。ある意味でヨーロッパ近代はこの「エスニック共同体」から「民族」を生み出していったと言うこともできるし、中東ではむしろこの伝来の「エスニック共同体」と「民族」との間に齟齬が生じたと見ることもできる。その意味では「エスニック共同体」を含んだ観点からの「民族」の検討は当然のことであろう。

 ちなみに、「民族」という言葉自体が政治の舞台に本格的に登場するのは、フランス革命を経た一九世紀に入ってからであり、その議論がさらに活発化するのは二〇世紀になってからである。その意味では、「民族」もまた近代になってから生まれたものだと言えないこともないのかもしれない。しかし、他方では連綿として続く民族的紐帯を強調し、時空を超えた一種の共同幻想的な「民族」理解にも根強いものがある。いずれにせよ、「民族」という言葉・概念については、現在もなおさまざまな解釈や議論、検討が行われている最中である。しかも、そうした議論を無視するかのように、現実にはこの問題は実質的な「民族問題」として世界各地で深刻さを深めつつある。

 さて、混迷の中にあるとも言える「民族」あるいは「民族問題」の新たな理解の地平を切り開くことを目的に、私たちはこれまでになかった一つの仮説を立てることとした。その仮説とは、「民族」とは近代に作られた観念的共同体であるが、その核心をなすのはコミュニケーションの媒体である言語そのものではなく、いわゆる「メディア」――ここでは口伝・言語・表象芸術から最新の伝達技術などまで含む広義のメディアを意味している――によって伝えられる多種多様なイメージの集積物であり、その意味において「民族」とは「メディア」による構築物であるというものである。とすると、民族とはあたかも一冊の完結した書物のような体系性を備えた物語あるいはきれいに分類・整理された資料集として把握しうるように見えるかもしれないが、しかし実際には、この書物にはたえず修正と加筆が加えられると同時に、すべての読者がその内容を共有するものでもない。多くの場合、読者はせいぜいその一部のみを共有するにすぎず、また、テキストの常として相矛盾する多様な解釈を含有する不定形な集積体であると言うことができるだろう。

 すでに見てきたように、また「民族」について語る多くの論者の認識に共通しているように、そもそも「民族」を一元的に定義づけることはできない。というよりも、「民族」とはある種の虚構、共同幻想であるとさえ言うことができる。なぜならば、「民族」は関係性の産物と考えられるからである。すでに述べたように、さまざまな時代・国家・地域・社会にあって、ある集団が自らを「民族」と意識するのは他の集団との差異を強く感じ取る場合である。すなわち、それは広義のコミュニケーションを通じて成立する相対的な「関係性」が意識化されるなかで生まれるものだと考えることができる。とすれば、「民族」を構成する基盤には、外部との差別性・差異性を明確化・具体化することで「民族」を言わば集団的に身体化するためのイメージが形成されることになるだろう。と同時に、それらのイメージは合わせ鏡のようにそのイメージに対応する外部集団のイメージをも生み出すはずである。

それでは、こうした「民族」の自己イメージや他者イメージから何が読み取れるのだろうか。

 このような仮説に基づいて、私たちはこうした「関係性」の成立に重要な役割を果たしている「メディア」に注目し、「メディア」を通じて自己や他者を意識することからはじまる自己相対化や他者像形成のプロセスを多様な事例を通して解明することに焦点を置いた。なぜならば、自己規定的なものにせよ、他者による外的なイメージにせよ、民族のイメージは何らかの「メディア」なくしては成立も伝播もしないからである。また、民族あるいは民族イメージの持つこうしたダイナミズムを視野に置かなければ、現実の世界を突き抜ける「民族問題」については局所的・対蹠的にしか理解することができないと考えたからである。

※「はじめに」 1頁から11頁のうち3頁から9頁を抜粋

著者プロフィール:羽田功(はだ いさお)
慶應義塾大学経済学部教授 1954年生まれ。慶應義塾大学文学部卒業(1976年)後、同大学院修士課程、博士課程修了(1982年)。1995年より現職。 専門分野:ユダヤ人問題、19-20世紀転換期ドイツ文学。
※著者略歴は書籍刊行時のものを表示しています。
 

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