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純潔の近代  立ち読み

『純潔の近代

―近代家族と親密性の比較社会学』

  

あとがき(抜粋)

 

デビッド・ノッター
 


『純潔の近代
―近代家族と親密性の
比較社会学』
あとがき(抜粋)  


『純潔の近代―
近代家族と親密性の
比較社会学』
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「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」という用語に対して、私はいくぶん違和感を覚える。問題は「イデオロギー」という語にある。多くの人に共有されている信念体系というような意味で用いられることが多いが、もう一方では政治的またはマルクス主義的な意味で用いられることもある。ロマンティック・ラブという「イデオロギー」の場合、それはフェミニスト論者に、女性を抑圧するためのイデオロギー装置として捉えられる場合が少なくない(e.g. Firestone 1970)。したがって、「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」という用語は、多少なりとも、それを支持する立場を連想させるものである。しかし私はそのような立場からロマンティック・ラブについて論じているわけではない。むしろ、クリフォード・ギアツが「文化システムとしてのイデオロギー」(Geertz 1973e)という論文で論じたように、あらゆる「イデオロギー」はシンボルから構成されるものであり、よって文化現象として捉えることが可能である。本書ではロマンティック・ラブという「イデオロギー」を何よりも文化現象として捉えており、それを把握するためにデュルケムの後期理論に基づいたアプローチを用いているのである。

 

このアプローチはロマンティック・ラブまたは家族感情の問題を把握するための鍵となるという自負が私にはあるが、このアプローチを用いることはまた多少のリスクをともなうし、それなりの覚悟が必要であった。それは、第一に、一般読者にとって、デュルケムの聖―俗理論は非常に誤解されやすい理論であることがあげられる。「聖なるもの」の話をすれば、まず宗教家のように聞こえる恐れがあり、特にその理論をロマンティック・ラブに当てはめると、「神聖なる恋愛」を提唱していた明治期や大正時代のインテリのように聞こえてしまう恐れもある。第二に、社会学を専門とする者にとっても、疑問をもたれやすいアプローチである。つまり、後で述べるように、ウェーバー以降、近代化は合理化と世俗化をもたらすという通念が社会学ではほぼ常識となっているので、近代における「聖」や「聖なるもの」に言及することは、基本的に誤っていると考える社会学者も少なくないはずである。しかしながら私は、このアプローチによって、ロマンティック・ラブのみならず、近代家族そのものの重要な側面が見えてくると考え、多少の誤解または批判を覚悟した上で、本書を上梓することにした。

 

本書で描かれている近代は、ウェーバーが論じた「脱魔法化」された(disenchanted)近代ではない。このような近代の捉え方は通説に背反し、疑問に思われがちであるだけに、最近、本書で提示した見解を正当なものとみなす研究が登場したことは心強い。ハーバード大学助教授(assistant professor)のニール・グロス(N. Gross)は近代における親密性の変容の問題を考察する論文のなかで(Gross 2005)、親密性の「脱伝統化」(detraditionalization)が一様に起こったという説に反論し、純潔規範をはじめとして、さまざまな親密性を規定してきた「伝統的」規範が解体してきたことはたしかではあるが、一方で、文化システムのレベルにおいては親密性のあり方を規定する伝統的な理想や信念などは決して解体したわけではなく、その事例としてロマンティック・ラブの残存をあげることができると主張している。

 

グロスは、私が英語で執筆した論文(Notter 2002)、またはコリンズの先駆的論文(Collins 1981)、さらにはベック――ベックはまた異なった理論的な立場からロマンティック・ラブの宗教性を論じる(Beck & Beck-Gernsheim[1990]1995)――の研究にふれながら、現在においてもアメリカ人にとってロマンティック・ラブの経験は「聖」への接近・参入につながっていると論じている。そしてグロスの研究の貢献は特にそのことの理論的インプリケーションの重要性を指摘するところにある。すなわち、アメリカ文化においてロマンティック・ラブが「聖」という領域と密接な関係にあるとすれば、それは、近代化が徹底した合理化・世俗化をもたらすという、社会学において長らく支持を得ていた通説の再検討を要請するものなのである。

 

近代化が知的合理化または世俗化を徹底させることは特にウェーバーによって強調されたことである。ウェーバーによると、近代という時代は世俗化された時代であり、「脱魔法化」・「脱神秘化」された(disenchanted)時代である(Weber [1918] 1946)。先に述べたように、この見解は一般的に受容され、社会学の常識の一つとなったが、一九六〇年代以降、社会生活のさまざまな「非合理」的な側面が浮上したことをきっかけに、その通説を疑問視する声があがってきた。そのなかで、ティリャキアン(E. Tiryakian)の論説は興味深いものである。

 

ティリャキアン(Tiryakian 1992)によると、西欧における近代は啓蒙思想をはじめに、最初から合理化や世俗化をもたらす文化的要因を含んでいたと同時に、またそれとは逆に、浪漫主義運動など、「再」魔法化・「再」神秘化(reenchantment)とでも呼ぶべき現象を促す要因をも、最初から含むものであったという。近代においては、人々は神秘的体験や「聖なる」世界を求めなくなった、というわけではない、とティリャキアンは論じる。つまり、近代の特徴とはむしろ、近代以前では人々は一般的に「聖」をこの世の中から離れた、超越的な領域に設けていたのに対して、「西欧の近代」においては、「聖」をこの世の中において求めるようになった、ということである。ティリャキアン自身はロマンティック・ラブについてふれてはいないし、本書の論説はティリャキアンのこの知見に基づいて書かれたものではないが、本書で指摘した「聖なるもの」としてのロマンティック・ラブ、または近代における家族感情の聖化そのものも、近代社会においては人々は「この世の中」に設けられた「聖」への接近を求め続けているという見解を裏付けるものであると言えよう。

 

聖―俗理論に基づいたアプローチはまた、アレクサンダー(Alexander 1988a, 1988b, 1989a, 1992)が明らかにしたように、シンボルや文化の把握を可能とするアプローチにつながる。近代家族論はこれまで、「情緒性」や「愛情」に注目してきたが、そういった感情現象を理解するためには、それを抱えるシンボル・システムに注目することが重要であるにもかかわらず、これまではこのような作業が十分に行われてきたとは言えず、近代化論の影響のもとで、「文化」の影響を把握するための理論が欠如していたとも考えられる(Notter 2002)。私は一方では日本語圏の社会学における近代家族論の影響を強く受け、その「パラダイム」のなかから論じているつもりでいるが、もう一方ではエール大学に設立された「文化社会学センター」(Center for Cultural Sociology)を本部とする「新しいアメリカの文化社会学」(Smith 1998)と呼ばれる動きの影響をも強く受けており、本書の少なくない部分は文化分析への挑戦である。その挑戦は未熟で不十分なものであるという懸念を抱えながらも、本書を公にすることによって、少しでも日本における近代家族論に新風を吹き込めれば幸いであると考えている。


 
著者プロフィール:著者プロフィールデビッド・ノッター(David Notter)

慶應義塾大学経済学部准教授 1964年、米国生まれ。オベリン大学(Oberlin College)卒業。京都大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。論文に、「近代家族と家族感情」(稲垣恭子編『子ども・学校・社会:教育と文化の社会学』世界思想社、2006年)、「純潔の構造:聖と俗としての恋愛」(『ソシオロジ』150号、2004年)、「スポーツ・エリート・ハビトゥス」(共著、杉本厚夫編『体育教育を学ぶ人のために』世界思想社、2001年)などがある。

 

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