小説家になってからの遠藤周作がつねに身近へ置いた一枚の写真がある。単色、縦型の写真で、母親の郁が和服姿でヴァイオリンを右脇に抱えている。郁はまだ若く、カメラに対して斜めに立ち、しかし顔だけは正面へ向けて笑みを見せる。頬はゆるみ、口もとからは後年の息子に似た大粒の歯がのぞく。周作はこの手札大の写真をケースに収め、普段は自宅と仕事場の書斎に、夏は軽井沢の山荘の食堂の棚に、海外に出かけた際はホテル部屋の机に、そして晩年の闘病生活では病室の枕元に置いた。
こんなエピソードがある。夏の終りに軽井沢から引きあげる折、妻の運転する車が夕刻、東京町田の自宅に帰りついて初めて、周作は郁の写真を軽井沢に置き忘れたことに気づいた。雨戸を立てて施錠した山荘に母親だけを置きざりにしてきた、と執拗に繰りかえして落ち着かず、仕方なく妻はひとり車をUターンさせて軽井沢へもどった。まだ高速道路はなく、難所の碓氷峠越えもあって片道に四時間近くを要したが、夜更けて妻が家へ帰りつくと、眠らずにいた周作は待ちかねたように写真を奪いとり、ようやく安堵の表情になった。
俗に言う母親コンプレックスを、本人も否定はしなかった。外で酒を飲んだり悪事をはたらいたりして帰ってくれば写真のなかの母は叱りつける顔になり、書斎で仕事を懸命にこなせば穏やかな顔になる。同じ写真なのに表情が変わる。壮年になっても母の顔色を気にかけ、母を怖いと感じたのは、自分がつねに「母を良心の規準にしているから」と明かした。
母親が良心で、息子が悪、あるいは愚――という図式がこの小説家の人生には変わることのない意識としてあった。母から監視され、怖れ、それでも叛逆して時に悪事をはたらく。そして後悔し、赦されたい、と願う。が、果たしてそれが叶うかどうか。もちろん初めから赦されると決まった叛逆は存在しないから、赦されるかどうかは賭けで、もしかすると駄目かも知れない。だがそれはたぶん、怖れというより畏怖に近い感情だ。母親を良心とする日本人が現在ではどれほどいるか知らないが、周作の母親コンプレックスはこの点で<通俗>の枠を遙かにはみだしていた。後年、妻の順子が著した『夫・遠藤周作を語る』のなかの次の言葉からもそれは推察できる。順子は、周作が「良心」と表現したものに「ホーリー」という言葉を充てた。聖夜(ホーリー・ナイト)のホーリーである。
「主人は母から、『ホーリーでない』と言われるのをとても恐れていたみたい。悪戯しても、成績が悪くても、何も怒られなかったけれど、『それはホーリーでない』って言われるのが、とても子供心にこたえたそうなのです」
たぶんに宗教的な色合いを含んだ言葉だが、要するに周作の母親コンプレックスは単なる母への愛着を超えて、聖(ホーリー)の領域にまで届いていた。母は良心であり、畏怖するものであり、そして聖(ホーリー)なるものへの厳しい監視者でもあった。妻はさらにこう言う。
「主人が私に、絶対にこれは本当なんだって言うときには、『おふくろに誓ってこれは本当だ』って言うし、私に対しても『おふくろに誓えるか』って訊きます」
かつて、遠藤周作『沈黙』をゲラ刷りで読んだ江藤淳は、小説の結末について「ロドリゴの背教による信仰の獲得という一点にむかって、すべてが過不足なく配置されている」と賛辞を送りつつも、「踏絵のキリストは、私には著しく女性化されたキリスト、ほとんど日本の母親のような存在に見える」(「背教者の苦悩と悦び」朝日新聞・昭和四十一年四月二十九日)と指摘した。遠藤文学のなかに〈母〉を発見した最初の批評だが、以後の遠藤周作はその言葉に触発されるかのように〈母なる世界〉を描き、江藤の指摘について、
「あれは小説家と批評家のもっとも理想的な関係だった」
と周囲に洩らしたことがある。しかし江藤はその後に書いた『成熟と喪失』のなかで、「母親のようなキリスト」についてさらに踏みこみ、踏絵のなかに隠された母の姿には、父を抹殺して母との合体を遂げようとする「母子相姦の願望」の成就が見えるがゆえに、この小説に「信仰の問題を見ようとする解釈はすべて意味がない」と書いた。
これに対して武田友寿『遠藤周作の世界』は反論する。要約すれば、踏絵のなかの母は子の罪を無限に受けいれる母ではなく、ひとつの理想を強い、ひとつの生き方を子に要求する母であり、地上では聖なるものがもっとも高く素晴らしいものだと信じ、より高い世界を目指すことに生き甲斐を感じている母で、それこそが遠藤の求めた母だと武田は説いたのである。
この解釈は、我われに先の聖(ホーリー)に関する母と息子のエピソードを思い出させる。たしかに江藤による「母子相姦の願望の成就」という指摘も魅力的だが、ここはやはり、「より高い世界を目指す生き方を強いるものとしての母」という武田の解釈に納得したい。
周作のなかの母親コンプレックスは、だが何も聖なる領域にかかわるものだけではなかった。一般的な意味での母親コンプレックスということでも、この息子は終生、人一倍はげしい愛着を母に対し抱きつづけた。果たして、「母は私の肌の一部」と言いきる息子が世の中にどれほどいるだろうか。キリスト教を懸命に学んだのも、そのキリスト教を棄てなかったのも、そして神をテーマにした小説を書きつづけたのも、周作の場合は何よりもまず母に対する愛着に由来していた。
圧倒的な母への愛着を物語るもうひとつのエピソード――。
『沈黙』『死海のほとり』といった純文学はもちろん、軽妙なエッセイ『狐狸庵閑話』も書いて人気作家となり、テレビのコマーシャルにも出演した頃のこと、東京・府中市天神町にある遠藤家の墓所が改修されることになり、いっとき母親の遺骨を周作が預かることになった。二十年ぶりの母との再会、それが嬉しくてたまらず、すでに五十代の息子は人目も憚らず、外国人演奏家のコンサートに母を抱いて出かけた。
郁は東京音楽学校、現在の東京芸術大学に学び、安藤幸やアレクサンダー・モギレフスキーに師事した音楽家だった。安藤は幸田露伴の妹で、ベルリン留学のあと東京音楽学校の教授を務め、昭和初期にウィーンで開かれた第一回国際コンクールの審査員に日本人として初めて選ばれたヴァイオリニストだし、またモギレフスキーも東京音楽学校で教鞭をとり、諏訪根自子を育てた日本ヴァイオリン界の恩人だから、郁は当時としてはずいぶん高等な音楽教育を受けたことになる。そしてそういう母だったから、息子は外国人演奏家のコンサートに母の遺骨を抱いて出かけた。小さいときから劣等生で、母を悩ませ嘆かせていた息子が、ようやく三十二歳で芥川賞をとったとき、すでに母はこの世にいなかった。受賞の直後に妻と長男を連れて温泉旅行に出かけたときも、心に湧きあがったのは母に対する罪悪感、つまり自分はいちども母を温泉には連れて行かなかったのにいま、妻と子供を連れてこんな贅沢をしているというウシロめたさだったから、息子としてはどこかで母に詫びねばならない。のちに周作が書いた小説はすべてこの母への謝罪と、赦されることへの希いが根底にあるように思えるが、そんなことの手始めのひとつが、遺骨を抱いての音楽会行きだったのかもしれない。この日、周作は周囲に悟られぬよう遺骨を風呂敷で包み、さらにそれを厚い紙袋に入れ、両腕に母を抱きしめてモーツァルトのヴァイオリン・ソナタを聴いた。
おそらく多くの日本の息子たちは、母親に対して口には出さぬが「申しわけない」「すまない」という意識を持ちあわせている。子供の頃からさんざん迷惑をかけ、悲しませ、あるときは無視し、否定し、反抗した。それでも母親は黙って息子を守り、抱きしめ、庇(かば)いとおした。だがそのことに気づいたときもう母親はこの世になく、息子にとってみれば悔いと辛さ、そして思い出だけが残る。実際には母親は死んだのに、いや死んだからこそ永遠に変わらぬイメージとなって生きつづけ、息子はいつまでも「申しわけない」「すまない」と嘆く。
周作の場合は、そこへさらに「うしろめたい」という裏切りの感情が加わっていたことを、『人生の同伴者』のなかで告白していた。「現在に至るまであるのです。なぜあるのかわかりません」。しかしわからないというのはおそらくポーズで、母がより高い世界を指し示す存在であった以上、息子のなかにそれを裏切ったと自覚する出来事があったのは当然だった。
それでもあるとき、
「俺は女運には恵まれていたな」
と、周作がちょっと自慢げに周囲に洩らしたことがある。
「母親にも女房にも恵まれたし、どういうわけか俺は悪い女とも付き合ったことがない」
六十代半ばでの科白だった。女房や付き合った女性をもち出すのはいいが、果して母親までが女運に入るのか……と聞く側は甚(はなは)だ訝しい気持になったが、周作があまりに平然と言いきるので斬りこむ隙がなかった。しかしこの小説家にとって、母と妻がつねに同根の存在であったことは、エッセイのなかの以下のような箇所を読めば了解せざるをえない。「私にとっては妻を拡大したのが母親であり、これは世の中の一番いい部分で、しかもそれに対して悪いことばかりして、迷惑をかけてきたのが、私だという気持から抜け切れない」。
たしかに妻には恵まれた、とは周作を知る誰もが口にする言葉である。置き忘れた写真を取りに深更の軽井沢・東京間を往復したり、遺骨を抱いてコンサートへ出かける夫を見送っても、この妻はただ笑って、
「子どもが親に甘える、そのままの姿ですからね。嫉妬心もヘチマもないんですよ」
と歯牙にもかけない。通常の姑と嫁という関係はこの家庭には存在しなかった。たとえば、初めて周作が軽井沢に自分の山荘を建てたときのことも、妻はこう述懐する。
「軽井沢の家も(母に)見せたくてね。でもその暇がないから、代わりに私がお骨を載せて、お供をして、軽井沢をお見せして、一晩お骨と一緒に軽井沢に泊まって……」
要するに、拡大して母になる女性を息子は嫁として選んでいたのである。
周作が順子に結婚を申し込んだのは一九五三(昭和二八)年のクリスマス、新宿の焼鳥屋でのことだった。周作三十歳、順子二十六歳。結婚の承諾を得たあと、店を出て周作は言った。
「これから二人で母のところへ行こう、紹介したい」
ところが行ってみると郁は留守で、
「では正月になったらもういちど訪ねよう」
となるのだが、それから五日後の十二月二十九日、郁は脳溢血で突然に世を去る。そのことを順子は、「遠藤の母に直接会えなかったために、かえってバトンタッチの重みを、無言のバトンタッチの重みを感じたのかもしれません」と振りかえるが、この日から息子は母に赦しを乞いつづける小説家としての人生を、一枚の写真をケースに入れなおして歩みはじめ、やがて母親の月命日と同じ日に人生をおえる。
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