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巻頭随筆

教育における楽しさ     田上 哲

 

 親も教師も子どもたちも、日ごろ「勉強」という言葉をよく使います。勉強には楽しいイメージはあまりないのでしょうか。勉強が嫌い、面白くないという子どもはたくさんいます。しかし、勉強が好き、楽しいという子どもも決していないわけではありません。

 小学校のときに問題解決学習を経験した女の子へ、彼女が社会人になったあとインタビューしたものがあります(社会科の初志をつらぬく会『個を育てる教育実践の筋道』明治図書出版、1997年)。

 小学校のときの勉強を覚えている? という問いに、“今の仕事もみんな、小学校のときの勉強の仕方と同じ。まず大学のゼミに出会ったときにそう思った”と答えています。「まず、不思議だと思うことから始めるでしょ。そこから自分なりに考えて、わからないから行って調べてみよう、何かわかるかもしれない、と。そこでまたちょっと欲が出てきてその中に飛び込んでいく。自分の考えていたことと違うことが発見されたり、自分の考えを組み立て直したりしますね。小学校の勉強と同じなんですよ」

 彼女は続けて、「何しろ、思いつきを言ってその場をうまく切り抜けるなんて許されなかったでしょ。だから、歩いてよく調べまわりました。調べながら何かわかっていくことがとても楽しかったですよ」と述べています。

 この子のように勉強が楽しいという子どもは、勉強を他の誰かから「強いられて勉める」ものではなく、自身が自らに「強いて勉める」ものと考えているようです。つまり、自発性や主体性が教育における楽しさの源泉の一つといえるでしょう。

 また、「思いつきを言ってその場をうまく切り抜けるなんて許されなかった」とあるように、楽しさとは正反対に聞こえますが、ある種の厳しさをもった互いへの関心が鍵です。近年主張されている学び合いや協同的な学習でも、ペアやグループで学習するという方法だけの問題でなく、本来は、互いに厳しくもあたたかい関心を持ち合う関係をどうつくっていくか、ということが重要でしょう。

 かつて、1970年代に“わかる授業”から“楽しい授業”へという主張がなされましたが、楽しい授業は子ども中心主義に拠ったもので十分な力をつけることができないと批判されました。しかし、当時の楽しい授業の問題点は、子どもの主体性を看過し、教える側が楽しさを目標に、楽しさを先取りして子どもに与えるものと考えたことではないでしょうか。自分の目標を持ち、それに向けて努力工夫できる子どもは、少しくらい大変なことでも、楽しみながら取り組みます。

 つまり、本来の子ども中心主義は、単に子どもを大切にし、子どもを気楽に楽しくさせるものではなく、その子が向き合わなければならない課題には、それが大変で困難なものでも、きちんと向き合い取り組めるように指導支援するものといえるでしょう。

 親や教師や友達の厳しくもあたたかい関心のもと、自分の課題に取り組み、互いに関わり合いながら表現し合い受け止め合って、自己の成長を実感していくことは喜びであり楽しいことでしょう。教授と学習、教授=学習過程という言い方がありますが、教える側の教師や親も、本来は先に学びつつそして教え(表現し)ながら成長していくものと考えれば、上述のことは子どもと同様です。

 教育における楽しさは、享楽的なものではなく、自発性・主体性、互いへの厳しくもあたたかい関心に支えられた協働性、自己の成長への実感に裏づけられたものといえるでしょう。


 
執筆者紹介
田上 哲(たのうえ・さとる)

九州大学大学院人間環境学研究院教授。専門は教育方法学、教育実践研究。九州大学大学院教育学研究科博士後期課程単位取得退学。香川大学教育学部助教授などを経て現職。著書に『生き方が育つ教育へ』(共著、黎明書房、2008年)、『教育課程・保育課程総論(第2版)』(共著、同文書院、2009年)、『日本の授業研究〈上巻〉授業研究の歴史と教師教育』(共著、学文社、2009年)など。

 
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