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巻頭随筆

最近の母親事情  大日向雅美

 

 新政権発足以来、子育て支援に注力する姿勢が強力に打ち出されている。しかし、その中核となる議論は子ども手当てに代表される現金給付に偏りがちな点がいささか気になるところである。子育て世帯の多くは年齢的に若く、経済的にも余裕が少ない事情もあって、現金給付が歓迎されることは事実であろうが、一方で「お金だけでは子どもは育てられない」という声も根強い。確かに急速に進行する少子化の背後には、現金給付だけでは決して解決し得ない昨今の子育て困難現象が横たわっているのである。

 子育てに苦悩する最近の母親の姿を象徴するエピソードを紹介しよう。

 一人の母親が公園で幼児を遊ばせていた時のことである。人気の遊具を待つ列に、その母親の子が割り込んだ。しかし、母親は割り込みを咎めることなく、「この子は、今この遊具で遊びたいという意欲を示した。せっかく芽生えた意欲を制止したら、将来ヤル気のない子になってしまう」と割り込みを是認する発言をしたという。随分と身勝手な口実だが、驚いたのはその場に居合わせた母親たちの反応である。「私たちはこれまでルールを守ることが大事だとしつけをし、いけないことはいけないと制してきたが、子どもの意欲を削いでしまったのか。将来、ひきこもりにでもなったらどうしよう」と真剣に悩むのである。言葉遣いや振る舞いから判断して、良識ある母親たちであり、育児に専念する生活に入る前は会社勤務など社会人としての生活も経験した女性たちである。順番を守り、互いに気持ちよく譲り合うマナーは社会生活の基本であるくらい理解していてもおかしくない。なぜ子育ての領域となると、かほどに神経質になり、判断ができなくなるのか不思議である。マスメディアを通して伝えられる子どもの姿は、いじめや非行、ひきこもり等々、難題満載である。大事なわが子をそのような目に遭わせてはならないと思いつめる母親たちの声に接する機会が、近年増えている。それだけ母親は子育てを難しくとらえ、子どもの成長発達を歪めてはならないと、自身に課せられている役割の重さに神経をすり減らしているのである。

 子育てに異常なほどのめりこんでいる母親がいる一方で、「母親役割だけでは充たされない」と訴える母親の声も広く聴かれる。高学歴を履修し、育児のために退社するまでは男性と肩を並べて活躍している女性が、一旦子どもを産んで育児に専念する生活に入ると、いつでもどこでも「妻」「母」としてしか扱われない。育児に専念しなければならないために社会から取り残されると焦燥感を強め、せっかく授かったわが子と共に過ごす時間にも喜びを見出せないと自責の念にも苦しんでいる。

 子どもの成長発達の成否は自分の子育てのあり方一つにかかっていると思いつめ、その結果、育児を息苦しくしてしまっている母親も、育児に生活のすべてを取られて社会からの疎外感に苦しむ母親も、いずれも子どもを産むことで女性がその人生にいかに無理な軌道修正を余儀なくされているかを考えさせられる。先般、政府が発表した「子ども・子育てビジョン」は、こうした母親の苦悩に光を当てた感がする。すなわち子育ては、家庭や親だけの役割ではなく、社会全体で担い、仕事と生活と子育ての調和を図ることを、子育て支援の大前提として打ち出している。長年、育児に閉じ込められてきた母親たちの苦渋の解決にベクトルを向けた子育て支援策が、今後いかに着実に実行されるのか、政策の行方を期待をもって見守りたい。

 
執筆者紹介
大日向雅美(おおひなた・まさみ)

恵泉女学園大学大学院教授。学術博士。専門は発達心理学。東京都立大学大学院博士課程満期退学。NPO法人あい・ぽーとステーション代表・子育てひろば〈あい・ぽーと〉施設長を兼務。主著に『子育てと出会うとき』(NHKブックス、1999年)、『母性愛神話の罠』(日本評論社、2000年)、『「子育て支援が親をダメにする」なんて言わせない』(岩波書店、2004年)など多数。

 
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