子どもは国の宝という考え方は、国際医学雑誌Lancetの論文で同様な表現を目にした記憶から世界各国でほぼ共有していると推察される。しかし現実は、その国の民度、宗教、政治情勢で子どもたちの置かれている状況はかなり厳しい国や地域が多い。その状況に基づき、国連は1989年に「子どもの権利条約」を採択しWHO/UNICEFは各国に勧告した。日本政府も94年に批准した。
はたして我が国は“子どもは国の宝”として対応してきているのだろうか。残念ながら、子どもたちに対するこの国の社会の対応、政策は、その理念とはほど遠いと言わざるを得ない。嘆かわしいことは、国民の多くが具体的に子どもに対する社会の対応で何が問題であるかを知らない上に、自分に関係ない他人のことは見ざる、聞かざる、言わざるの悪しき個人主義が浸透してきた結果、子どもたちのために“何かやってあげよう”という広い意味の路地裏育児力の低下があると考える。
抽象論はやめて数字を挙げて説明したほうが具体的で分かり易い。国立社会保障・人口問題研究所のデータによると、我が国の医療や介護、年金などにかかった社会保障給付費の総額は2007年は91兆4000億円強で、その約70%は高齢者への給付であった。一方、小児への給付はわずか5%弱でしかなく、この額は過去10年間を見ても変わっていない。このことを多くの国民が知らないのは仕様がないにしても、小中学校の先生方もほとんど知らないであろうし、実は小児科医でも知らない者が多いことに驚かされる。後期高齢者医療制度が導入されたときは、一部の大新聞、マスメディアそして政党が「姨捨山」などと感情的批判キャンペーンを行い、結局、現鳩山政府は「年齢で差別する制度」としてこれを廃止すると公約してしまった。紙幅の都合で筆者の結論を急ぐが、これは現在の子どもたちへ大変な負担を長期にわたって強いる(国の借金を背負わされる)ことになる (興味のある方は、日経新聞2009年12月2日社説を参照)。子どもは国の宝とは笑止千万である。成人、高齢者は選挙を通して自分たちの要求を主張でき、政治屋は票が欲しくて人気取り政策を掲げる。しかし子どもたちは何ら要求できる術を持たず、戦争も含め常にオトナのエゴイズムの犠牲者である。
医療的ケア、例えば訪問看護、介護ひとつとっても、小児は成人・高齢者に比し非常に不利な立場にある。呼吸や食事などで医療的ケアが必要な子どもは全国で約7,500人いて、その多くは自宅で療養しているため、その介護に主として当たっている母親とその家族の負担は計り知れない。成人、高齢者に対する訪問看護、介護サービスは介護保険制度により全国的に普及し、ある程度の量および質は確保されている。しかし小児の場合は、小児慢性特定疾患治療研究事業などに基づく在宅療養支援サービスはあるが、その制度に対するサービス受給、供給する側の認知度の低さ、供給スタッフの量と質の低さに基因した依頼断りなどもあり、「年齢で差別」を受けている例が決して少なくない。就学年齢に達した子どもたちの親御さんの中には、気道吸引、飲食物、薬物注入のため経鼻胃チューブ、気管切開に伴う器具を有している我が子を特別支援学校へ通学させている。しかし親の付き添いが求められ、二重三重の苦労を強いられている。例えば親が体調を崩したときは学校を休まざるを得ない等々。このような子どもが学校に受け入れられた家族は“ラッキー”である。
前述の子どもの権利条約の一項に「病気、障害のある子も健常な子と同様に教育を受ける権利がある」と謳っている。しかし我が国の現実は、病気や障害があることを理由に入学を認めない教育界のオトナ、子どもを虐待する親もいる。子どもは国の宝であり、そのために大人は努力すべきであるということが分かってもらえるようになる日が遠くないことを祈念したい。
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