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立ち読み
巻頭随筆
関わりの中で磨かれ・拓かれる感性  丸野俊一
 

 スポーツを心ゆくまで楽しんだのであろうか。汗をびっしょりかいた子どもたちが、初秋の木陰で、なにやら「そよ風」を肌で感じ・味わいながら会話している。「風が顔を撫でている」「風が語りかけてくる」「風が顔の汗をソッと拭き取ってくれる」「風がよしよししている」「風がスーッと顔を走っていく」……。どの子どもの発言も、目に見えない外なる「そよ風」に身を任せた関わりの姿勢と、スポーツに没頭した内なる充実感から湧き上がる開放的な真っさらな心(身体)との一体感から紡ぎ出される表現である。私たちの心・体は、外なる世界を認識すると同時に、内なる世界を映し出す鏡である。その鏡が曇りのないものであればあるほど、いつもは当たり前と思ってつい見過ごしがちな、外なる世界の微妙な動きや事象の変化の中にさえも、活き活きした感動を感じ取る・映し出すことができるにちがいない。だが、その場の時空間を共有しているはずの私の心・体には、もはや、子どものような感性豊かな表現は感じ取れない。

 それは、なぜか。おそらく、外なる世界に身を投げ出し、自然(風)の動きに身を任せ、状況の中に立ち現れてくる微妙な動きに感動・感激・癒しを感じ取り吸収できる肥沃な感性土壌としての、内なる充実・開放感が私の中に体験されていないからではないか。当たり前と思って見過ごしがちな諸事象の中に、何か不思議な・感動する・価値ある世界を発見するためには、内なる充実・開放感を持って、諸現象に真っさらな目と心・体で向き合う静観的志向性が不可欠である。

 思い起こせば、私の中にも、その光景をビビッドに今でも思い出すことのできる、子ども時代に体験した感性豊かな一場面がある。それは、山から重い薪を背負い運び出す仕事をしていた道中で、雑草の中に可憐な「菫(すみれ)の花」を発見したときのことである。そのとき私の内面世界から湧き上がってきた「菫の花」に対する感じは、単なる花ではなく、長い風雨に晒された後に生き返った新たな「命の息吹」であり、「明日に向かう希望の光」であり、「人生の応援歌」であり、「菫の紫色」は単なる色ではない「心を癒す色」であり、言語では一重に表現できない不思議なクオリアであった。「菫の花」を発見した瞬間に内面から立ち現れてきたクオリアによって、それまで背中に感じていた薪の重さや苦しい体験そのものは一瞬の内にどこかに消え去り、逆に重さや辛さを感じることなく、前向きな軽やかな清々しい気持ちになったことを覚えている。そのときに、私は無意識のうちに、「踏まれても根強く忍べ道芝の やがて花咲く春も来るらん」と口ずさんでいた。風雨に晒され耐え続けた後に可憐な「紫色の花」を咲かせ、新たな命を息吹かせた「菫」の根強い姿勢の中に、重い薪を運び出すという作業の中での自分の苦しい一連の体験過程が重なり合ったことから創発されたクオリアである。自然のリフレインの中には、限りなく私たちを癒してくれる何か(生態学的癒し)がある。その何かを如何に価値あるものとして感じ取るかは、その人の関わり方による。

 そう、感性とは、“自然・モノ・人との関わりの中で磨かれ・拓かれる極めて創造的なもの”である。そのためには、自分の体を状況の中に投げ出し、状況の中に立ち現れてくる諸現象の変化と純な心で、真剣に対話する私たち一人ひとりの存在を忘れてはならない。

 

 
執筆者紹介
丸野俊一(まるの・しゅんいち)

九州大学理事・副学長。九州大学大学院人間環境学研究院教授。教育学博士。専門は認知発達心理学。九州大学大学院教育学研究科博士課程中途退学。著書に『知能はいかにつくられるか』(ブレーン出版、1989年)、『子どもが「こころ」に気づくとき』(ミネルヴァ書房、1998年)、『心理学のなかの論争』(ナカニシヤ出版、1998年)、『認知発達を探る』(監訳、北大路書房、2008年)、『〈内なる目〉としてのメタ認知』(至文堂、2008年)など。

 
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