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巻頭随筆
教育のイノベーション  佐藤 学          
 
 

 政治、経済、社会、文化のすべての領域において「イノベーション」が推進されている。「イノベーション」の一大ブームは30年ほど前にもあったが、その時はもっぱら「技術革新」であった。今進められている「イノベーション」は「技術革新」よりも広範囲で、より構造的で、より根本的な「革新」である。「モード(様式)」と「システム(制度)」の全体にわたる「革新」と言ってよい。しかし、事態はそう進展しているだろうか。「イノベーション」という掛け声のもとに「様式」や「制度」が新たに創出されるというよりも、それらの空洞化と崩壊が進行しているのが現状ではないだろうか。少なくとも政治や経済の動きを見ていると、そう思われて仕方がない。
 「イノベーション」が必要なのは、社会が大きく変化しているからである。教育の「イノベーション」の必要性もそこにある。教育の「イノベーション」を皮相な改革に終わらせず、「様式」や「制度」の空洞化や破壊に導かないためには何が必要なのだろうか。
 教育は文化的実践である。文化的実践における「イノベーション」においては「伝統」の反省的継承と「創造」の創意的挑戦が必要である。何よりも新しいものを創出する思考の柔らかさと慎み深さが求められる。私が授業の改革において「声」の柔らかさや「聴き合う関係」の応答性や教師のポジショニング(居方)を重視してきたのも、そして教師と子どもが共に創意を発揮する「ジャンプのある学び」を重視してきたのも、そこに本意がある。
 学校や教室という場所における「イノベーション」は、声高の主張や押し付けによって推進されるべきではない。むしろ日々の小さな営みの変化を生み出す「静かな革命」によって遂行されるべきものだと思う。「様式」の革新においては身体の作法の革新が何よりも大切である。「モード」の原義が「身ぶり」を意味し、「慎み深さ(modesty)」という美徳を生み出した歴史は意味深長である。
 この30年間、世界の教室は大きく様変わりした。黒板を背にして教科書を中心に教師が一方的に講述し、それを生徒個々人がノートに筆記し理解するという教室の風景は、今や博物館に入っている。誰が言い出したわけでもなく、黒板は使われなくなり、教壇と教卓は姿を消し、教師は学びのデザイナーとなり、教科書は副教材となり、教室は協同的な学びの場所へと変貌している。まさに「静かな革命」である。この「静かな革命」のなかに、今日の教育のイノベーションのもっとも確かな姿を見ることができる。
 教室の「静かな革命」は、日本の小学校、中学校、高校においても緩やかだが確実に浸透しつつある。特に、この数年の進展は著しい。新しい学びの様式、新しい授業の様式が全国各地の教室で創意的に創出されつつある。この「イノベーション」を豊かに発展させるために何が必要なのだろうか。それは、この小さな営みの変化をこまやかに観察し記述し語り合う柔らかな言葉ではないだろうか。授業を語る言葉をもっと繊細にし、具体的にし、豊かにしなければならない。そこに教育の「イノベーション」の成否がかかっている。

 
執筆者紹介
佐藤 学(さとう・まなぶ)

東京大学大学院教育学研究科教授。教育学博士。専門は学校教育学。東京大学大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。三重大学教育学部助教授、東京大学教育学部助教授を経て現職。著書に『教育改革をデザインする』(岩波書店、1999年)、『学びの快楽』(世織書房、1999年)、『学校の挑戦』(小学館、2006年)など。

 
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