「ミホちゃんたちに、あやまっていたって言うてやらんね。あのパン、私らで食べてしもうたけん……」と、近くの高齢者ホーム・白萩苑の知り合いの事務職員から、電話が柏川東小の国武先生のもとに入ったのは、単元「パン工場」も終盤に近付いたある日のことだった。
授業は、家庭でのパン焼きの報告会から、暁パン工場の見学へと進んでいた。国武先生の当初の考えでは、この単元を「パンの旅」と題する紙芝居作りで締めくくる案を立てていたが、もう一つ物足りないと言うのだ。
日本の初等教育では、手慣れた教材がいくつかある。それらにはそれなりの十分な理由がある。いわく、郵便やさん、駅で働く人々、ごみ処理の仕事、絵地図作り等々。これらは、多くの重要な論理的発想や技術のシステムなどにつながる系を豊富に持ち、その後の学習的発展に信をおく限り、範例的宝庫というべき教材である。しかしその奏効には、時と場を読み取る教師の機転と知見がなくてはならぬ。それに十分な学習体制を整えるまで育てられる学級の子どもたちがいなくてはならぬ。
国武先生は、複式学級で教えた経験も豊富で、自由な発想での授業の展開で同僚にも人気があり、何と言っても、子どもたちを豊かな考えと、賑やかな発言の学級へと育て上げる指導力で優れた人なのだ。その頃まだ前職にいた私の所へ、時々相談に来ていた。その日も、日頃の子どもたちの面白い様子などを話題にしながら、次の授業展開をどうもって行くかを考え合っていたのだ。
「そういえばこのあいだ、あの仲良し4人グループは、自分たちの作ったパンを帰りに白萩苑に持って行ったそうで……。学校の行き帰りに、お年よりたちが気になっていたんでしょうねぇ、可愛いでしょ? きのう白萩苑から電話があったんですよ。連絡遅くなったけど、あの子たちにその言い訳をって、53人のお年寄りなので、とても足りなかったから……とか」。「そりゃ、絶好のチャンスじゃないですか」と私。一瞬、国武先生の眼が空中に游(およ)いで再び私へ「ああ、分かりましたぁ」[場・転]
「白萩苑のおじいちゃんおばあちゃんは、50人以上いるんですよ」
柏川東小2年学級は、がぜん色めき立った。単級での持ち上がりの年月で培った、クラス全体の気持ちが通じ合う学級だ。クラス全員でたくさん作ってパンを届けることにたちまち衆議一決。「暁パン工場のごと、手分けして流れ作業で……、2年学級パン工場や!」。
家庭や実験室での自前のパン作りと、工場での大量生産との差についての学習は既に万全である。需要から供給を厳しく逆試算しなければならない。たちまち、集める小麦粉の量、借り出すオーブンの数、応援を求める給食室のおばさん等々と話が決まっていく。最後のとどめも子どもが刺した。期待どおりだ。「みんなで届けに行って、パン工場の学習やらどうやったか、お話しすればえぇ」。そのシュプレヒコールの文案の合作は、学習全体のみごとな総まとめとなった。
教師の喜びの最たるものの一つは、一人ひとりの子どもを、一を聞いて十を知る者に仕上げる実感であろう。しかし、こういうことで、多くの自意識の高い教師を悩ましてはならないとも思う。画一的な学年発達観と、集団の一斉学習制のくびきが、強く教師を締め付けていることも知っているからだ。
その後、このいきさつは、今は亡き同僚、野見山先生の手で「手作りのパンをどうぞ!」と題した報告書にまとめられている。 (*生存者等、一部改名して掲載しました)
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