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巻頭随筆  第55巻3号 2007年3月
ひとなる権利について          大田 堯
 
 旧教育基本法の前文では「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない」という文章がある。これは、現憲法のもとで、普及徹底すべき教育のかたちを、国に求めたものである。「改正」により全文削除となった。
 ところで、私宅でやっている中小企業の社長さんたちとの勉強会では、「普遍的にしてしかも個性ゆたか」とは一体どういうことですか、という質問が出る。「うーん……」と私。「たとえばべートーべン、民族、国境を超えて感動を呼ぶ。べートーべンならではの個性(もちあじ)から創り出される」「ベートーベン? わっしらならせいぜい演歌くらいまで……」「ああ演歌ね、知床旅情、りんご追分……それも普遍的でしょう、しかも個人の創作」「わかりました。じゃ文化の創造をめざす」って、「文化って何です?」「うーん、あなたはどう思う?」「文化住宅、文化鍋、それに先生みたいな学者文化人?」
 文化とは何かを改めて問いかけられると、頭をかかえる。まずモグラから考えてみる。モグラは地下生活を選び、穴を掘る。それには、発達したごっつい両手で、まず土を横におし拡げ、次いで上に掻き揚げるという。つまり身体の一部をシャベル代わりに変容して、環境に適応する。ところが人は、身体の外に創り出したシャベル、道具を使用する。要するにヒトは道具を外に持つ動物だ。「はじめから道具と言ってもらったら……わっしらだってドライバー使ってます」という返事が返ってくる。
 旧教育基本法のこの文言は、子どもだけでなくすべての主権者がそれぞれの道具(文化)で、自分の「持ち味」(個性)を生かして、世のため、人のため(普遍)、工夫して「出番」を果たす。そういう主権者の学習権(ヒトがヒトになる権利)を保障しなさいという国への要求である。
 学習権と言ったが、まだ日本の法律にはない。しかし、1976年学力テスト最高裁判決では、「学習の権利」を認定している。学テ裁判や教科書裁判では、子どもに対する教育権が国にあるのか、国民(ピープル)の側にあるのか、争われた。最高裁は、教育に対する支配権は、いずれにあるのでもなく、まず子どもの学習の権利が中心にあって、そのために国も国民(ピープル)も、部署に応じて協力すべきだ、という現代教育学の定説を受容した。国際社会は、1985年ユネスコ成人会議を通して、学習権は文化の中に生きる生存権、基本的人権だと宣言する。
 荒れ、いじめ、自殺、まずは国の教育で始末をつける。改定教育基本法のたてまえの一つとされている。そのため、国民(ピープル)が守るべき多くの徳目が教育目標として羅列され、法律で上意下達の装置をつくり上げようとしている。突出した国の教育権能の乱用ではないか、と私は思う。
 それでも、生命は自ら変わる。人は自然と文化の中で、自分流儀に選んで変わる。揺り籃から墓場まで、選び続けて紡ぎ出す人生は、壮大な芸術(アート)だ。学習権はそこに座をもつ人権中の人権である。それを介助する手だての一つが教育である。ちょうど、私たち一人ひとりの治癒力への介助が、医療、看護であるように。介助者はかけがえのない一人ひとりの人生のアートの演出者(アーティスト)でもあろう。国は舞台装置、充分な条件整備に専念してもらいたい。
 「改定教育基本法」を教育現実に立って、教育条件整備基本法に変える。国民(ピープル)の一人として課題としたい。
 
執筆者紹介
大田 堯(おおた・たかし)

教育研究者。東京大学名誉教授。都留文科大学名誉教授。日本子どもを守る会名誉会長。専門は教育史、教育哲学。著書に、『教育とは何か』(岩波新書、1990年)、『子どもの権利条約を読み解く』(岩波書店、1997年)、『証言―良心の自由を求める』(一ツ橋書房、2006年)ほか多数。

 
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