▼食べる形態に時代の空気感が反映されるのはなぜだろうか。
これで思い出すのは、今は亡き松田優作が主演した映画「家族ゲーム」(1983年発表、森田芳光監督)である。家族が横に並んで食事するシーンは、ばらばらになった家族の象徴として当時は衝撃をもって取り上げられた。
▼そして昨今は、「孤食」に加え、「ぼっち席」(ひとりぼっちへの周囲の目線を気にせず食事できるように設定されたレストランの席)、「便所飯」(トイレの個室で一人で食事をする)が言われるようになっている。便所飯の前では、家族が横に並んで食事するなどはまだ平和に思えてしまう。
ぼっち席、便所飯とも、“一緒に食べる友人がいないかわいそうな人間”と見られること自体への不安や恐怖から生じているものである。そこには、表面的であったとしても「つながる」ことへの脅迫じみた是認や、「一人ですが、何か?」と言えない自我の弱さを感じてしまう(中・高校生の場合は便所飯がいじめからの避難行動である場合もあるので、それは別に考える必要がある)。
私と同年代の女性の中にも、一人ではレストランなどで食事ができないという人がいる。そうであれば、私など遠出の出張ができず、本当の意味で「ご飯が食べられない」状態に陥ることが必至であるため、住んでいる世界が違うとさえ感じる。しかしそれは、昔の社会通念を引きずっているためでもあるので、一概には否定ができない。このようなことを考えると、食はその人が生きてきた時代や家庭、おかれている状況を映す鏡のように思えてくる。
▼内閣府が推進する食育推進基本計画では、第2次計画に続き、第3次計画でも「共食」(きょうしょく)が大きく位置づけられている。また、厚生労働省の「健やか親子21」においても、学童期・思春期から成人期に向けた保健対策の成果の参考指標として、「家族など誰かと食事をする子どもの割合」が第2次計画から設定されている。
これらの動きは、食事が子どもの成長に深く関わっているためにほかならない。
▼食事は、生きる上で最も身近な日常的な行為のひとつであり、生命の維持にかかわるものである。その日常の行為が、孤食や便所飯といった寂しさや苦痛を伴うものであるとしたら、生きることへの力に影響することは、少し考えれば容易に想像がつく。しかし、そのような状況が流行語となる事態になってしまったのはなぜなのだろうか。ひとつは、日常的な行為ほど、その意味を考える機会が少なくなるためかもしれない。おかしな状況であってもそれが日々のことであれば、慣れてしまう怖さである。
▼本特集は子どもの食を扱っているが、自分の食への向き合い方を問われると忸怩たるものがある。大人も食べることの意味を自分に問う必要があることを認識させられた。
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