▼英語は今日、世界の共通語のような位置づけがなされています。グローバル化の掛け声のなかで、日本では社内で使用する言語を英語に一本化した企業もありますし、学校では英語教育が一層重視されようとしています。次期学習指導要領ではこれまで小学校の高学年で行っていた外国語活動を3学年4学年に前倒しして、高学年では教科として英語を教えようとしていますが、時間の捻出が難しいため、10分から15分の短時間学習を早朝に組み込むといったことまで考えられています。
▼英語ができることとグローバル化は直結していると考えられているようです。ただ面白いことに、知り合いのイギリス人の大学教員は、世界で最もグローバルでない国民はイギリス人だと言います。世界中どこでも英語が使えるから他の国の言葉をあまり学ぼうとしないし、結果として他国の文化や人々に対する関心を乏しいものにしているというのです。
英語は、言語の起源からみた場合、「生まれたばかりの英語は辺境の一弱小言語に過ぎなかった」(町田健『言語世界地図』新潮社、2008年)というように、非常にマイナーな言語です。そのマイナーな言語があたかも世界共通語のような位置を今日得ているのは、歴史的、政治的、そして経済的なものによります。極論ですが、日本がもし第二次世界大戦で勝利していれば、日本語が今の英語のような位置づけになったかもしれません。だから、英語がこれからもずっと今のような位置を保ち続けられるかどうか本当はわかりません。
▼さて視点を変えて、世界における日本語教育の現状はどうでしょうか。国際交流基金の2012年の調査によれば、世界で約400万人の人々が日本語を学習しています。その半分は中学校や高校で第二外国語として日本語を学んでいます。地域別にみると、東アジア(中国、韓国、台湾)が占める比率が圧倒的に高く、次いで東南アジアとなっています。詳しく観ると東南アジアでは、学習者の意欲が低いという問題も指摘されています。それは、それぞれの国の政府の方針・思惑で中等教育段階に第二外国語として日本語を設置したため、日本に関心がある学生だけでなく、日本への関心の薄い学生も日本語を受講するようになったからだと言われているようです。
▼言語はツールです。知識と同様に、自分に必要なものしか身につきません。また実際に使い続けなければ、自在に使えるようにはならないでしょう。親の海外赴任先で育った幼い子どもは、親よりもあっという間に現地の言葉を使えるようになります。その言語が英語であっても、日本に帰国するとまたたく間に使えなくなり、学校の英語の成績が平均よりも悪くなる子どもの話をよく聞きました。英語を必要とする状況、必要だという意識が英語を身につける要件でしょう。裏返して言えば、そういった状況や意識がないのに英語の学習を強要することは、害があっても利があることではないのではないでしょうか。
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